だから遠慮もいりはしないが、とにかくここから出ることにしよう。もうお巡りさんの廻って来る時間だ、見つかるとまたうるさい」
 お巡りさんといわれて、寺内氏はハッとなったという。それまで考えてもみなかった淋しさが、潮のように氏の胸をとりかこんだ。氏は老人に続いて、何を考える暇もなく立ち上がった。そして池畔《ちはん》のわずかだった休息から、今はすっかり暗くなった六区の石畳の道へと出たのである。
 石畳へ出て二、三歩行きかけた時、
「そうだ、行く前に風呂へ入らないかな、相当疲れているんだろう?」
 と老人が立ちどまった。氏は別にその時入りたいとは思わなかったが、今更《いまさら》老人に逆らってみてもはじまらないといった気持で、御意に従う旨を表情で示すと、
「じゃちょいとここで待っていてくれ、俺が今湯銭をこしらえて来るから――」
 そのままシネマG館の角を曲がって、しばらく老人は姿を消した。
 湯銭をこしらえて来るとはどういう意味なのであろう、まさか、盗んで来るというのではあるまいが――? 氏はいよいよ老人の正体を考えあぐんで、変な自分のこの半時間たらずの行動を、今更のようにふりかえってみるのだった。
「さあ待たした、行こう」
 老人が引っ返したのは余程《よほど》たってからだった。行こうというからには湯銭はできたに違いない。氏はそのことを訊《たず》ねてみようとためらいながら、ついそのままに老人にしたがって、町の名も知らぬ一軒の湯屋へ、遅いそののれんをくぐって入った。老人が五銭白銅一枚と、一銭銅貨五枚とを番台へ置くのが見えた。
 着物を脱ぐ老人を、寺内氏はあらためて注視した。いや老人に集まる周囲の眼、番台の眼、そんなものを氏はさりげない風にうかがったのである。老人に対する周囲の眼が、どんな色に動くかさえ知れば、おおよそ老人の正体も知れるであろう。と考えたのだが駄目であった。都会は何から何までが個人主義だった。湯銭さえ受けとれば後は御勝手といわぬばかりに、番台の男はこくりこくりやっているし、もう数少なの客達も、皆めいめいの帰りを急いで、氏や老人に一顧《いっこ》さえ与える者はいなかった。
 明るい電燈の下で、丸い老人の顔はつやつやと光った。柔和な瞳は絶えず幸福に輝いていた。子供子供した厚ぼったい掌は、氏の掌よりもよほど美しかった。
 ――老人は決して乞食ではない、と悟《さと》ると氏は今までにない恐怖に似たものを感じたという。
 がまた自分の、今といってどこへ行くべき当てもないことを考えた時、その恐怖に似たものは、いつか知らずうすれていって、やがて流し場へあぐらをかいた氏は、もう老人の背を流したり、老人から背を流されたりしていた。湯屋で借りた手拭《てぬぐい》の汚れも、今はまったく気にかからなかった。
 しかしこの時、氏はすでに恐ろしい計画の中へ、老人のために追いやられているのだと誰が知ろう!
 湯から出た老人は、一服つけた後独り言のようにいった。
「さてと、今日はお客様があるのだから、本邸より別荘へ行くとするかな」

 老人にともなわれて、氏は暗いいくつかの路地をぬけた。両側にはガラス戸のある家などは一軒もなかった。おそらく建て方のいびつなためであろう。閉められた板戸の隅々から、弱い電燈の光がそれ等の家々のつづまやかさを洩《も》らしていた。太陽の下で見ることができたならば、おそらくそこはゴミゴミした、貧しい人達の一区ででもあったに違いない。
 やがて二人の達した別荘なるものは、そうした町の一角に相当大きく、そして黝《くろ》くそびえていた。が、とりまわした塀も見えず、どこにも明りを見ることはできなかった。空をくぎった黒い影で、氏はその建物の洋館であることだけは悟ることができた。
「もう門が閉まってるからな、俺がちょいとおまじないをして来るまで待っているんだ」
 老人は低声にいって、それから建物の表てと覚しい側へ廻って行った。暗い地上に独り立って、氏が再びこの老人のうえにいろいろな想像をめぐらしたのは勿論《もちろん》である。だが不思議に、今は老人の言動を、何も疑う気になれなかったと氏は話した。
「さあ、入ったらいい。うまくいった」
 闇の中から声がして、思いもかけぬ氏の面前に穴があいた。建物の一つの戸が開かれたのである。
「そこで靴をぬいで、段があるんだから」
 老人の注意がなかったら、その時氏はすぐ前の上がり段に、あるいは向こう脛を打ちつけただろう。まるで胸をつくようなせまい廊下だった。廊下を老人について一曲がりすると、ぽうっと左手の部屋から明りが流れていた。八畳の部屋を二つ、ぶちぬいたと覚しい大きな部屋が、廊下との境いに障子一つなく、氏の眼の前に現われたのである。
 見ると、いるいる、その広い部屋いっぱいに、たった一つの電燈を浴びて、もじり[#「もじり」に傍点]の者、法被《はっぴ》のもの、はなはだしいのは南京米の袋をかぶったもの、いずれも表通りでは見られないような男達が、およそ四十人近くも、いっぱいに詰まって、いぎたなくそこにごろ寝をしているのだった。
「静かにするんだ。そしてほら、あの間へ寝転ぶといい。腹が空いているだろうが、また明日のことだ。寒けりゃこれをかぶって寝てもいいぞ」
 老人がそれまで己れの身につけていた毛布を貸してくれた。氏にはこの建物が、A区の無料宿泊所であるとは翌日の朝までわからなかったそうである。老人のいった別荘の意味は、単なる隠語であったとは知ったが、毛布をかぶってごろ寝しながらも、氏はいよいよ不可解になってきた老人の正体を考えずにはいられなかった。
 おそらくこの老人とても、こうして雑魚寝《ざこね》の連中と同一|軌《き》の人種に違いない、とそのことは考えられたが、なお氏の頭には、老人の態度その他の、変に紳士的なところが理解できかねたのである。
「よし、明日になったら聞いてみよう。そして老人の正体によって、これが受くべきでない恵みならば、いさぎよく受けないことにしよう」
 多少の余裕を回復した寺内氏は、そう思いつめた末に、なかば空腹を感じながら、やっと眠りについたのである。

「俺は労働者じゃない、といって乞食ともいえないだろう、勿論職業なんてものは十年この方忘れてしまった。何さまこれで六十の坂はとうに越えているからな。しかし別に働かなくとも食うにこと欠くわけではなし、寝るに寒い思いをするではなし、もっとも汚いといえば、それは俺が食うもの、着るもの、それから寝るところだってあの通り汚いが、なあに物は考えようさ。俺はただ気ままに、食ったり寝たり遊んだり、ごらんのような工合で面白く生きてるというまでのことだ。都会というところは実によくできていて、只《ロハ》で何でもいうことを聞いてくれるからな。だから心配しないで、まあ酒が欲しければ酒……ああ酒は駄目なのか、じゃ煙草なら煙草、何でも好きなものをいうがいい、昨日のようにもらって来てやるから。女が欲しけりゃ女だって――少し急いで行こう、でないと飯に遅れてしまうから」
 老人は歩き歩き、そんなことを寺内氏に答えた。昨夜の無料宿泊所を出て、二人はまだ暗い河岸の通りを歩いているのである。
 急ぎながら、老人は寺内氏に対して、それが驚くべきいろいろな都会のぬけ裏[#「ぬけ裏」に傍点]のことを話してくれた。
 たとえば昨夜の煙草である。あれは老人が付近の射的屋へ行って、ただその顔をのぞけただけでもらって来たものだというのである。
 老人はかつてその十二軒だか並んでいる射的屋の一軒一軒を、頃をはかって、
「よう今晩は」と入って行った。そして、「どうだい姐さん、俺にいくらでもうたすかね?」
 と台に半身を泳がしていったのである。
 第一の射的屋では、
「さあどうぞ」
 とあっさり弾をつきつけられてしまった。すると射的なんか全然できない老人は、
「はっはっは、姐さんはまだ若いね、そうムキになられるとこっちがうてなくなる。気の毒だからまあこのつぎにしよう」
 とそのままつぎへ廻ったのであるが、見も知らぬ老人の腕前を、どこにうたさぬ先から見ぬく射的屋があろう、老人はそこでも弾をつきつけられた。が、同じ言葉をくり返して、老人はたゆまずその十二軒を廻ったという。
 ところが面白いことには、その七、八軒目から、もう老人の後には、用のない弥次馬《やじうま》がうんと従《つ》いて来て、それらが老人が射的屋へ入るたびに、コソコソと、
「あれやお前、××の年寄で、これで身代を潰《つぶ》しちゃった人間だよ」とか、
「この人にうたしたら、射的屋が幾軒あったって一軒だって立っちゃゆかねえ」
 とか、そんな風に陰の後援を自然にやってくれて、それが第十軒目では、
「まあ親方ですか、今日はあいにく混んでおりますから、おそまつですけれどこれで勘弁なすって――」
 と何もいわぬ先から『朝日』一個を渡されたというのである。以来老人は煙草が欲しくなれば、頃をはかってその十二軒の――どれかの射的屋へ顔を出して、「うたすかね!」と朝日なりバットなりをもらって来るのだというのである。
 また湯銭にしても、それが十銭や十五銭のことなら、どこにでも盛り場というものにはそんな金が落ちてる穴があるそうである。拾得物《しゅうとくぶつ》がどうのこうのとやかましくいえば限りがないが、放っておけば腐ってゆく金を、ただ拾い出して来るのになんの咎《とが》があろう、使われてこそ金自身としては本望ではあるまいか――とそんな話のうちに、二人は目的のところへ来てしまった。
「いいか、真っ直ぐに歩いて、黙って、金を払って食うつもりで食うんだぜ」
 老人は一言注意して、寺内氏の先に立って、標札も何もない板塀の門から、堂々と中に入って行った。まだほの暗いその門へは、法被姿や巻脚絆《まききゃはん》や、いずれは労働者と見える連中が、同様に一人ふたり連れ立ってやって来ていた。そして寺内氏も、老人と共に人々に交って、なんの心配もなく、広い新木造りの食堂で、腹いっぱいに、温かい食事をすることができたのである。
「これも都会のぬけ裏[#「ぬけ裏」に傍点]なのかな?」
 寺内氏はそう思いながら幾杯もお代わりをした。
 門から出る時には少し手段がいった。それはこの食堂が、ある組合の経営のもので、そこで食事を許される労働者は、しばらく塀のうちで待ったのちに、監督につれられて、その日の賃銀を働くべく、作業場へ行くようになっているからである。
 が、三十人に近いそれ等の労働者のうちには、ちょいと煙草を買うために門を出て行く者がないではない。寺内氏と老人とは、きわめて自然にそんな労働者を装って、苦もなく再び、自由な町へと門を出たのだった。
「どうだい、罪だと思うかね、俺がこんな風に生活していることを?」
 その門から数町離れたところで、やはり歩きながら老人がいった。そして今は幾分老人に安心した寺内氏が、それに対して少しの意見をのべたに対して、
「勿論《もちろん》罪は罪だろう、が、こんな罪は決して他の労働者に迷惑をかけたり、また監督の腹をいためたりはしやしない、全く周囲に交渉のない罪なら、社会的にはそれは少しも罪ではないからな」
 と老人は、なかなか変わった意見を吐くのである。そして老人自身はその罪でないことを信じている旨を話し、二三、こうした罪でない罪のはなはだ老人にとって有益である例をあげた後に、
「面白いと思うなら、これからある場所へ行って、お前さんの服装をもっと立派なものに変えてみようではないか。一文もいらないとも、勿論。俺だって今少し若ければ、色気というものがあるから、多少こざっぱりしたなりをしてるんだが、この年ではこの方が気楽だからな」
 と、これまた興味のある相談だった。
 寺内氏はその時、老人の持っている主義というか哲学というか、そんなものから、自分の今日までを照らし合わして、なかば肯定《こうてい》的なものを感じたとのことであった。
 今はこうした不思議な生活の、その罪であるかどうかというような問題よりは、これから直面しようとする服装の冒険に、いいしれぬ興味と勇気を覚え
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