その履歴書を瓢箪池へ投げた。続いて辞令を、謄本《とうほん》を、それから空っぽの蟇口を。
 ベンチの横に立っているお情けのような終夜燈の光が、それ等《ら》落ちて行く寺内氏の過去を、ひらひらと、幻燈のように青白く照らしてくれた。どんな過去もどんな履歴も、今の自分には何等必要がないではないか――。
「はっはっは」と氏は思うさま笑ってみたのである。と、それに調子を合わせたように、「はっはっは」としかもすぐ氏の横で誰かが笑った。
 氏はその時受けた感じを、たとえば何か、固い火箸《ひばし》のようなもので向《む》こう脛《ずね》をなぐられたような――到底説明しがたい感じだといった。見ると、同じベンチの反対の端に、一人の男が――ボロ毛布を身体に巻いた老人が、氏の方を見てまだ顔だけ笑っていたのである。
「どうしたい?」
 とやがてその老人から言葉をかけられたが、氏はその時、思いもかけず人のいた驚きで、急に返事をすることはできなかったといっている。
「士族ってつまらないものだな」
 と重ねてその老人から話しかけて来た時には、氏はかつて聞いた北海道行き人夫のことを考えていた。そしてこの老人が果たしてそんな恐ろ
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