ることよ!
寺内氏の驚きがどんなものであったか――そもそもかの老人は何人《なんぴと》であるのか、また彼女は、恋しい美代子は何人の夫人であるのか? 今見る老人は明らかにかつての乞食ではなくまた彼女も、明らかにかつての船員の妻ではない!
「美代子――美代子!」
氏はもう一度我を忘れて叫んだのである。そしてそのまま席を立ち上がった。
がこの時、一方では老人と彼女は、氏の声にそれと知ったのか、あるいは特別な時間でもきたのか、ちょうどこれも席をたって帰りはじめた。
氏はうち騒ぐ人々の間を転ぶようにぬけて、一度方向を間違えながら、懸命に玄関へと走り出た。走り出るのと、老人と彼女とが自動車に乗るとが一緒だった。あっと思う間もなく、自動車はつい宵闇へ去ってしまったのである。ちらと見た運転手の顔に、何か見覚えがあるように思ったが、その時は氏には思い出すことができなかった。
しかし氏は、まだ絶望はしなかった。その自動車の番号を周囲の明りでハッキリと読みとっていたのだ。劇場の人々が彼等に対して丁寧《ていねい》な態度や、運転手のそれに対するうやうやしい態度は、彼等が相当に名のある老人、名のある夫人で
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