た時には、そうした一区劃こそありはしたが、彼女は元より、隣家でその由を訊ねてみても、そうした人のいるということさえ、全く知ることができなかったのである。
 氏はまた一日を浅草にかの老人をも訊ねてみたが、幾晩氏があの思い出のベンチへ凭《よ》ろうとも、これもついにその老人を見ることはできなかった――。
 そうして二年の月日がたったのであるが、二年たった夏のはじめ、氏は思いがけなくもかの老人を、そして彼女を、しかもその両者を一つにして、歌舞伎座の華やかな特等席に見出したのである。
「おお美代子、美代子だ!」
 寺内氏は衆人の前も忘れてそう叫んだそうである。
 菊五郎の棒しばりが、すとんすとんと気持よく運ばれているうちに、ふと何かのきっかけで、特等席に眼をやった氏は、そこに、おお、かつてのあの不思議な老人と並んで、輝くように盛装した彼女が、小間使いでもあろうか、これも美しい若い女に二つばかりの子供を抱かせて、静かに舞台に見入っているのを見たのである。
 忘れることのできないその面長な顔、瞳、唇《くちびる》、しかもかの老人が、なんとモーニングらしい装束《いでたち》で、すまして、ゆったりと並んでい
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