の前に不思議な人間が現われたのである。しかも、その手には抜き放たれた短刀が光って見えた。
「頼むから君の服をくれ、代わりに僕のこれを――嫌《いや》なら嫌といえ、さあ早くだ!」
その男は株屋のどら息子といった様子をしていた。三十前後の眼尻の切れあがった、何様一くせあり気な面魂《つらだましい》である。後から誰かに追いかけられてでもいる態度で、もう一度、
「早くしろ、頼む」
と短刀を持たない左の手で、余りの驚きに呆然《ぼうぜん》としている氏を拝むようにした。
「早く、早くしろ!」
我にかえった氏は仕方なく服を脱いだ。一着の背広は売ってしまって、今は垢《あか》と油でよれよれになっている詰襟《つめえり》の上下を。それから形のくずれた黒の短靴を。男は氏の脱いで行く端から、その詰襟を器用に着た。そして着たかと見る間に、もう木立のかなたに駈《か》け去って行った。
やむなく男の大島を着て、対の羽織の紐を結んだ氏は、その時何か老人の言葉に、神意とでもいったもののあることを感じたが、瞬後《しゅんご》、氏は背後から駈けつけた私服の刑事に肩先を掴《つか》まれたのである。が刑事は、くだんの男を知っていたに
前へ
次へ
全35ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
橋本 五郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング