、その言葉の端々やそれから態度に、何か紳士的なものが感じられる。煙草をもらって来るといった言葉から考えれば、正しく老人は北海道行きの人夫引き子で、もらいに行った先はその仲間の家ではないだろうか? もしそうとすれば自分はこれからどうなるのであろう? 彼等は一度交渉を持てば、その恐ろしい集団の力で、到底相手を逃さないものと聞いている。だが、それほどの悪人が、己れの商売をするのに、煙草銭さえも持っていないとはどうしたのであろう? もし老人が乞食であれば、自分は既にその乞食から一度の食を恵まれたわけである。上京して来てわずかにふた月、もう自分は乞食の社会へ一歩を落としたのではあるまいか――と氏の胸には、そんな淋しい予感ばかりが去来した。

「さあ朝日だが――」
 と老人が元気に帰って来たのは間もなくだった。
 氏はその時の誘惑にも、到底勝つことはできなかったといっている。同じ北海道へやられるのなら、なんでもかまわずもらってやれ、とそんなさもしい気持になったそうである。
 新しい朝日の袋をぷつりと切って、その一本に火をつけた時のよろこび! 氏は感謝という言葉が持つ意味を、その時はじめて知ったと思った。胸いっぱいに吸いこんで、それからそろそろとできるだけながく、静かに静かに吐き出して、吐ききったところでしばらく眼をつむって、氏は空へ出て行く紫の煙の、氏の腹の中からいろんな汚物を拭《ぬぐ》い去って行く清々《すがすが》しさに陶酔した。
「蟇口を投げちゃったりして、あぶれちゃったのかい?」
 老人は喫茶店の卓《テーブル》にでも凭《よ》った調子で、ひどく鷹揚《おうよう》な口のきき方をした。氏の胸には朝からの、いやふた月この方の苦しさを感じる健康が、次第に回復してきた。苦い苦い都会の経験が、いろんな形で思い出された。
 老人の問いに幾分警戒の心は動いた。後で考えてみても説明のできぬ気持で、その時氏は現在までのすべてを老人に話したというのである。が老人は、氏がひそかに期待した北海道行きの話は持ち出さなかった。
「じゃ今夜の宿がないってわけだな?」と同情に満ちた声でいったのが、聞き終った時の老人の最初の言葉だった。「だがまあいいやな、若いんだから。そのうち芽の出る時もきっとくるだろうよ、くよくよしないでやってるんだな――で今夜は、なんなら俺のところへ来てもいいんだが、来るかい? なあにお互いだから遠慮もいりはしないが、とにかくここから出ることにしよう。もうお巡りさんの廻って来る時間だ、見つかるとまたうるさい」
 お巡りさんといわれて、寺内氏はハッとなったという。それまで考えてもみなかった淋しさが、潮のように氏の胸をとりかこんだ。氏は老人に続いて、何を考える暇もなく立ち上がった。そして池畔《ちはん》のわずかだった休息から、今はすっかり暗くなった六区の石畳の道へと出たのである。
 石畳へ出て二、三歩行きかけた時、
「そうだ、行く前に風呂へ入らないかな、相当疲れているんだろう?」
 と老人が立ちどまった。氏は別にその時入りたいとは思わなかったが、今更《いまさら》老人に逆らってみてもはじまらないといった気持で、御意に従う旨を表情で示すと、
「じゃちょいとここで待っていてくれ、俺が今湯銭をこしらえて来るから――」
 そのままシネマG館の角を曲がって、しばらく老人は姿を消した。
 湯銭をこしらえて来るとはどういう意味なのであろう、まさか、盗んで来るというのではあるまいが――? 氏はいよいよ老人の正体を考えあぐんで、変な自分のこの半時間たらずの行動を、今更のようにふりかえってみるのだった。
「さあ待たした、行こう」
 老人が引っ返したのは余程《よほど》たってからだった。行こうというからには湯銭はできたに違いない。氏はそのことを訊《たず》ねてみようとためらいながら、ついそのままに老人にしたがって、町の名も知らぬ一軒の湯屋へ、遅いそののれんをくぐって入った。老人が五銭白銅一枚と、一銭銅貨五枚とを番台へ置くのが見えた。
 着物を脱ぐ老人を、寺内氏はあらためて注視した。いや老人に集まる周囲の眼、番台の眼、そんなものを氏はさりげない風にうかがったのである。老人に対する周囲の眼が、どんな色に動くかさえ知れば、おおよそ老人の正体も知れるであろう。と考えたのだが駄目であった。都会は何から何までが個人主義だった。湯銭さえ受けとれば後は御勝手といわぬばかりに、番台の男はこくりこくりやっているし、もう数少なの客達も、皆めいめいの帰りを急いで、氏や老人に一顧《いっこ》さえ与える者はいなかった。
 明るい電燈の下で、丸い老人の顔はつやつやと光った。柔和な瞳は絶えず幸福に輝いていた。子供子供した厚ぼったい掌は、氏の掌よりもよほど美しかった。
 ――老人は決して乞食ではない、と悟《さと》ると氏は
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