つへたどりついていたのである。
 時間はちょうど六区のはねた直後のことで、そこでまだ、楽しい人々がまっくろになって電車道へと押し流れていたが、ぞろぞろと遠ざかって行くその足音は、ベンチにくずおれた氏の耳へは、まるで埋葬《まいそう》に来た近親者が引き返すのを、埋められた穴の中から聞くようにひびいたそうである。
 六区の電燈がばたばたと消えていった。とそれに追い立てられるように、今までやかましかった夜店の売り声がひとつひとつなくなっていって、賑《にぎ》やかさの裏のひとしおのつめたさが、氏の足先を包んできた。何か甘ずっぱい風が、氏の胸から背の方へついついと肺臓をぬけてゆくように思われたという。
 何がなしにしばらく眼をつぶっていてから、氏はポケットの履歴書を取り出して、これも何げなしにその文字をゆっくりと眺めて見た。士族と断わってあるのが変に滑稽《こっけい》に思われたり、学校への奉職という字が急に憎々しくなったりした。田舎のことがちらと頭をかすめた。しかし氏の連想は、汽車賃どころかもはや自分には今どうする金も一文もない、というところで豆腐のようにぼやけてしまったのである。
 氏は後ろざまに、その履歴書を瓢箪池へ投げた。続いて辞令を、謄本《とうほん》を、それから空っぽの蟇口を。
 ベンチの横に立っているお情けのような終夜燈の光が、それ等《ら》落ちて行く寺内氏の過去を、ひらひらと、幻燈のように青白く照らしてくれた。どんな過去もどんな履歴も、今の自分には何等必要がないではないか――。
「はっはっは」と氏は思うさま笑ってみたのである。と、それに調子を合わせたように、「はっはっは」としかもすぐ氏の横で誰かが笑った。
 氏はその時受けた感じを、たとえば何か、固い火箸《ひばし》のようなもので向《む》こう脛《ずね》をなぐられたような――到底説明しがたい感じだといった。見ると、同じベンチの反対の端に、一人の男が――ボロ毛布を身体に巻いた老人が、氏の方を見てまだ顔だけ笑っていたのである。
「どうしたい?」
 とやがてその老人から言葉をかけられたが、氏はその時、思いもかけず人のいた驚きで、急に返事をすることはできなかったといっている。
「士族ってつまらないものだな」
 と重ねてその老人から話しかけて来た時には、氏はかつて聞いた北海道行き人夫のことを考えていた。そしてこの老人が果たしてそんな恐ろしい人間であるか否《いな》かと、その丸い顔を、柔和な眼を、健康そうな表情を、それからがっしりした老人の体格をただみつめていた。
「学校の先生ってつまらないな」
 その老人は続いていった。が、氏にはまだ言葉を返すことができなかった。
「蟇口ってやつもおよそしようのないもんだな」
 ――この老人はいつの間にこのベンチに来て、またいつの間に、そんな氏が士族の子弟であり、かつて小学校に奉職していたことなどを知ったのであろう? と氏はやはり老人の面をみつめたまま黙っていたというのである。
「どうだ、食わないか?」
 はっはっはと老人は笑いながら、それまでもぞもぞやっていた毛布のふところから、一個の新聞紙包みを出して開いた。そして食い残しらしい八、九本のバナナが、急に氏の食欲を呼び覚まさした。手を出すのじゃない、手を出すのじゃない、とわずかな理性があの北海道行き人夫の末路を想像させた。がその時、氏は到底《とうてい》その誘惑には勝つことができなかったと述懐した。
「いただいてもいいのかしら――」
 若い寺内氏はそういったつもりであったが、急に覚えた口中のねばねばしさで、それは唇から洩《も》れずして消えてしまった。が、つぎの瞬間には、理屈も何もなく、氏はもうくだんの老人と並んで、仲よくそのバナナの皮をむいていたのである。そしてその味のなんと咽喉《のど》にやわらかく触れたことであろう!
「煙草《タバコ》はやるのかい?」
 と食い終わったところで老人が訊いた。食後の一服を氏は予想していなかったが、そう問われてみると、押えがたい喫煙の欲が、冷えた指の先々まで漲《みなぎ》ってくるのだった。
「おや、もう喫《の》んでしまったかな、確かにまだあったと思ったが――いいや、まだやっているだろう、ちょいと行ってもらって来よう」
 氏がまだそれと答えないうちに、毛布の中で手を動かしていた老人は、身体のどこにも煙草がなかったと見えて、そんなことを呟《つぶや》くとそのままベンチを立ち上がった。
 そして老人が煙草を持って帰って来るまで、氏の胸を往来した思念は、過去への呪いでもなければ前途への想像でもなく、今去って行ったその老人の、果たしていかなる種類の人間であるかということであったという。
 その服装で見れば、いかに土地不案内な寺内氏にも、老人は乞食以外の何者にも見えなかった。しかし乞食といってしまうには
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