今までにない恐怖に似たものを感じたという。
 がまた自分の、今といってどこへ行くべき当てもないことを考えた時、その恐怖に似たものは、いつか知らずうすれていって、やがて流し場へあぐらをかいた氏は、もう老人の背を流したり、老人から背を流されたりしていた。湯屋で借りた手拭《てぬぐい》の汚れも、今はまったく気にかからなかった。
 しかしこの時、氏はすでに恐ろしい計画の中へ、老人のために追いやられているのだと誰が知ろう!
 湯から出た老人は、一服つけた後独り言のようにいった。
「さてと、今日はお客様があるのだから、本邸より別荘へ行くとするかな」

 老人にともなわれて、氏は暗いいくつかの路地をぬけた。両側にはガラス戸のある家などは一軒もなかった。おそらく建て方のいびつなためであろう。閉められた板戸の隅々から、弱い電燈の光がそれ等の家々のつづまやかさを洩《も》らしていた。太陽の下で見ることができたならば、おそらくそこはゴミゴミした、貧しい人達の一区ででもあったに違いない。
 やがて二人の達した別荘なるものは、そうした町の一角に相当大きく、そして黝《くろ》くそびえていた。が、とりまわした塀も見えず、どこにも明りを見ることはできなかった。空をくぎった黒い影で、氏はその建物の洋館であることだけは悟ることができた。
「もう門が閉まってるからな、俺がちょいとおまじないをして来るまで待っているんだ」
 老人は低声にいって、それから建物の表てと覚しい側へ廻って行った。暗い地上に独り立って、氏が再びこの老人のうえにいろいろな想像をめぐらしたのは勿論《もちろん》である。だが不思議に、今は老人の言動を、何も疑う気になれなかったと氏は話した。
「さあ、入ったらいい。うまくいった」
 闇の中から声がして、思いもかけぬ氏の面前に穴があいた。建物の一つの戸が開かれたのである。
「そこで靴をぬいで、段があるんだから」
 老人の注意がなかったら、その時氏はすぐ前の上がり段に、あるいは向こう脛を打ちつけただろう。まるで胸をつくようなせまい廊下だった。廊下を老人について一曲がりすると、ぽうっと左手の部屋から明りが流れていた。八畳の部屋を二つ、ぶちぬいたと覚しい大きな部屋が、廊下との境いに障子一つなく、氏の眼の前に現われたのである。
 見ると、いるいる、その広い部屋いっぱいに、たった一つの電燈を浴びて、もじり[#「もじり」に傍点]の者、法被《はっぴ》のもの、はなはだしいのは南京米の袋をかぶったもの、いずれも表通りでは見られないような男達が、およそ四十人近くも、いっぱいに詰まって、いぎたなくそこにごろ寝をしているのだった。
「静かにするんだ。そしてほら、あの間へ寝転ぶといい。腹が空いているだろうが、また明日のことだ。寒けりゃこれをかぶって寝てもいいぞ」
 老人がそれまで己れの身につけていた毛布を貸してくれた。氏にはこの建物が、A区の無料宿泊所であるとは翌日の朝までわからなかったそうである。老人のいった別荘の意味は、単なる隠語であったとは知ったが、毛布をかぶってごろ寝しながらも、氏はいよいよ不可解になってきた老人の正体を考えずにはいられなかった。
 おそらくこの老人とても、こうして雑魚寝《ざこね》の連中と同一|軌《き》の人種に違いない、とそのことは考えられたが、なお氏の頭には、老人の態度その他の、変に紳士的なところが理解できかねたのである。
「よし、明日になったら聞いてみよう。そして老人の正体によって、これが受くべきでない恵みならば、いさぎよく受けないことにしよう」
 多少の余裕を回復した寺内氏は、そう思いつめた末に、なかば空腹を感じながら、やっと眠りについたのである。

「俺は労働者じゃない、といって乞食ともいえないだろう、勿論職業なんてものは十年この方忘れてしまった。何さまこれで六十の坂はとうに越えているからな。しかし別に働かなくとも食うにこと欠くわけではなし、寝るに寒い思いをするではなし、もっとも汚いといえば、それは俺が食うもの、着るもの、それから寝るところだってあの通り汚いが、なあに物は考えようさ。俺はただ気ままに、食ったり寝たり遊んだり、ごらんのような工合で面白く生きてるというまでのことだ。都会というところは実によくできていて、只《ロハ》で何でもいうことを聞いてくれるからな。だから心配しないで、まあ酒が欲しければ酒……ああ酒は駄目なのか、じゃ煙草なら煙草、何でも好きなものをいうがいい、昨日のようにもらって来てやるから。女が欲しけりゃ女だって――少し急いで行こう、でないと飯に遅れてしまうから」
 老人は歩き歩き、そんなことを寺内氏に答えた。昨夜の無料宿泊所を出て、二人はまだ暗い河岸の通りを歩いているのである。
 急ぎながら、老人は寺内氏に対して、それが驚くべきいろいろな都
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