さ、とでも云った風なものを感じた。
 部屋には、一|間《けん》の書架が二対飾られ、それには内外の書籍が、美しく肩を並べていた。また洋材の三角な高机や、床の違い棚には、諸種の美術品や参考品が、調和よく置かれていた。
 人間の心境もあるところまで進むと、その全体が、こうも静かになるものであろうかと、彼は、その青年の優しい様子を、一種尊敬の念をもって眺めたのであった。
 食事が済むと、彼は促されて入浴した。人一人を容れるに足る程の湯舟であったが、そこでも亦《また》、彼は、僅かに二人切りの生活に、このセチ辛い都会の中で、殊更に自家用の風呂を所有することの出来る、富裕な青年を羨まずにはいられなかった。
 湯を出ると、部屋は奇麗に取り片付けられ、青磁の火鉢に銀瓶が沸《たぎ》っていた。茶菓が出されていた。
「泊って行ったらいいでしょう?」
 青年は微笑みながら云った。
「いいえ、それでは――」とまでは彼も辞退したが、考えて見れば、帰る、と云い得る自分の家はなかった。彼は自己の分裂を悲しみながらも、青年の好意に頼る他はなかった。
「ね、そうして呉れ給え。その方が僕としても都合がいいんだ、是非、頼み度《た》いこともあるし――」
 そして青年は一寸眼を瞑《つぶ》った。彼は、頼むと云われた言葉に不安を感じた。そしてこれまでの、食事や入浴やが、ひどく不気味に悔いられて来た。俺を何に使う考えだろうか? 利用せられるのではないだろうか?
「実はね」
 青年は多少声を落して、
「これは君の自殺を買うための頼みなんだが」と話し始めた。それに依ると、明晩ある所まで使いに云って貰い度い、そして金を受取ったならば、その金は君自身好きなように使い果して呉れればいい。自分の頼みは、その家まで行って貰うことにあるので、それ以外は皆君の自由だ。勿論《もちろん》金を受取ったからって、再び此処《ここ》へ帰らなくともいい、いや帰らない方がいい、と云うのである。
 彼は、そのあまりに不合理な依頼に、一時は躊躇《ちゅうちょ》もしたが要するに恩人の頼みだ。受取った金は、再び此処へ持ち帰ればいい。そうすれば自分の責任も済む。と独り考え定めて、その依頼に、快く応ずることにしたのであった。
「で、何と云って行くんですか?」
「うむ、一寸待って呉れ給え」
 青年は、眼を瞑って、暫くその言葉を考える様子をした。その秀でた顔面には、その間、いろいろな感情が浮いては消えた。だが青年が眼を開いた時には、それ等の痛ましい閃きは、皆ひとつの、ある強さに変っていた。
「少し厄介だけれどね、僕がこれから云う言葉を云って貰いたいんだ、何、それ程こみ入った挨拶でもない、いいですかね」
 訓導が児童に接するような態度で、青年はその言葉と云うのを唱え始めた。実際、それは唱えると云うのが当っていた。彼は青年のそれにつれて、真面目に、所謂《いわゆる》挨拶の言葉なるものを暗誦して行った。
「最初はね、誰でもいいから家の人に会って、いいですか、恩田《おんだ》さんに会わして下さい、急用なんです、伴田《はんだ》からです」
「恩田さんに会わして下さい、急用なんです、伴田からです」
「その通り、次に、恩田と云う老人に会ったらね、いいですか、敏子《としこ》さんに会わして下さい」
「敏子さんに会わせて下さい」
「そう、もっと怒りっぽく云ってもいい。だが敏子には会えない。そこで老人が、何かきっと体采《ていさい》のいいことを云うからね、その時は君の必要なだけ、百円でも二百円でも呉れと云えばいいんだ、うむ直ぐ呉れるからね、それを貰って、その金で、君は君の生活を立て直し給え、ああそれだけ」
 そう云ってしまうと、青年はさも最後の努力で使命を果した、と云った様子で、疲れて沈黙《だま》ってしまった。
「恩田さんに会わせて下さい、急用なんです、伴田からです――」
 彼は口の中で、も一度それ等の言葉を繰返して見た。何のことだか解らなかった。だが彼は、青年を疑う気にはなれなかった。考えれば考える程起る不審を、青年に諮《ただ》す勇気も持合せなかった。彼の正しい感じに依《よ》れば、この恩人はあまりに疲れていた。若《もし》くは虐げられていたようであった。同情を受ける現在にありながら、彼はなお、この富裕な青年に同情を寄せる事が出来たのであった。
 彼は請《こ》われるまま、すべての問題を信の一字に託して、その夜は絹夜具の中に平和な夢を結んだのだった。

     4

 翌晩――午後の九時過ぎであった。
 それまでに入浴、散髪などを強いられ済した彼《かの》野々村君は無理義理やりに、青年の美しい衣服を着せられ、教養ある富裕な青年として、その風采に必要なもの、例えば、正確な型のソフトや、銀の懐中時計や、嫌味のない棒ステッキ、毛皮のトンビに白の繻子《しゅす》足袋、ま新
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