間を音もなく行く、それは確《たしか》に人間の姿だ。しかも若い男だ。気が付かなかったが、それまで石塔のひとつに腰かけていたに違いない。影はそろそろと歩いて行く。
「飯を食わせろ」
そう云って飛び付き度《た》いような親しさを彼は感じた。不思議に友人か何かのように考えられた。彼の両足は何と云う意味もなく、相当の間隔を保ったまま、その青年と同じ歩調で同じ方向へ歩いて行った。
青年は墓場をぬけて、破れ塀に添うた小路を丘陵に向って歩いた。首を垂れて影のように歩いた。
幾時頃であったろうか、もうあたりはすっかり暗くなってともすれば視界が失われたりするのだった。彼が丘陵と見たのは鉄道の土手であった。○○○○○○○○○○○○○○ものを左下に見た時、彼は、何故か来てはならない処《ところ》へ来たような気がした。そして思わず足を止めた。とその瞬間、何処にどう潜ったのか、彼は青年の姿を見失ってしまったのであった。
あてどない俄盲目にも似た彼は、突然底知れぬ暗闇の中にとり残されたのだ。独りだ、と感じると、今更のような寒さと共に、かつて知らなかった生々しい恐怖が、しかも奇怪な落着きをもって、彼の皮膚の上を這い廻った。ぞろぞろと撫でさすって過ぎた。
静かに線路に下り立った彼は、身を踞《かが》めてレールに耳を当てた。遠い黄泉《よみ》の国からかでもあるように、不思議な濁音が響いて来る。それは美しい韻律をもって、例えば夢のからくりのようにいとも快い刺激を鼓膜に与えた。彼は尻を立てた黒猫のような格好で、忘我の中に、そのまま凝乎《じっ》と蹲《うずくま》っていた。
音響がひどく烈しく、段々《だんだん》近く聞えて来た。と、
「危い!」
誰かが彼の肩を掴んで引き戻した。とほとんど同時だった、彼の袂《たもと》のすれすれを、ゴォーッと凄まじい唸りを残して真黒い列車が通り過ぎた。彼の眼には列車の窓の、華かな明りだけが残った。
「危なかったじゃあないか、いったいどうしたんだ?」
彼を救った人間は、こう云って闇の中で、彼の衣服の泥を払った。彼は別に有難いとも悲しいとも感じなかった。ただ涙が、さんさんと止めどなく溢《こぼ》れ出した。
「まあ煙草でも呑み給え」
それを無意識に彼は受取った。そしてこの青年が墓地からの同行者であったこと、善良な、富裕な、しかも教育のある人間であることを、彼は涙の中から一度に感じた。
「済みません、僕は、僕は何も喰っていないのです」
彼は、初めて感謝の念をもって答えた。恥しさもなかった。
「何も喰っていない? じゃあ君、僕の家へ行こうじゃあないか」
友達のような親しさではないか。彼は今日までの貧しさを全部話した。そして自殺する考えではなかったこと、しかし早晩、そうなるような気がする、と率直に付加えた。
「僕も実はねえ」
と、青年は語尾を濁らしたが、やがて何か考え直した様子で、
「何だったら、僕が君の自殺を買えばいいんだ、それが金のことなら――」
と、また後は消えてしまった。
彼はとにかく、青年の好意に甘えることにした。青年は路々、金に困っている若い人々の話を訊いた。そして深い黙考を続けながら歩いた。彼はつとめて虔《つつ》ましく、彼自身や、または同様の運命にあるであろう幾多の青年の、無名の画家の話をした。沈み切った真実を以って、人はパンのみに生くるものにあらず、と云うキリストの言葉が、それ等未成の偉人達には、一番かなしい事実であると云うことを。
だが彼としては、この不可思議な好意を受け入れる以前に何故この一面識もない青年紳士が、かくも異常な時間に、異常な場所に来合せ、しかも旧知以上の親切をもって、彼のこの、貧しさ寂しさを慰めて呉れるかを、考うべきではなかったろうか。
ふたりは、やがてその青年の住居へ来た。
3
青年の住居と云うのは、その鉄道線路を背景にした新開町の、樹木の多い高地にあって、新しい二階建の、隅から隅まで手の届いた、一見閑雅な建物であった。
ふたりが玄関の、スリガラスをはめた格子戸の前に立つと、「お帰りなさいませ」と、上品な婆やの顔が、それを内から開いて迎えた。
彼は二階の六畳に通され、そこで夕食のもてなしを受けた。その食卓がいかに善美に、その品々がどれ程美味に、この哀れなる者の涙を誘ったことであろう。だが彼は、思う三分の一も、それを咽喉に通すことが出来なかった。だが腹は一杯であった。
「君、ゆっくりやって呉れ給えよ」
そう促して、共に箸を手にしたのであったが、青年は至って物倦《ものう》げな様子で、その貴族的な顔に疲れの色を浮べ、ほとんど食わないと云っていい位少食だった。そこには希望のない人間の、あのなげやりな様が窺われた。彼は青年の様子から、普通人には見ることの出来ぬ、何か巾の広い、弱々しい親し
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