しい正の日和下駄《ひよりげた》、と云った一分の隙もない装《こしら》えを与えられ、愈々《いよいよ》目的の家に向って、その不思議な使命を果すために、恩人の住居を出発した。
閑寂から雑沓への、郊外の電車は込まなかった。彼は若い女達の、明かに衣服の美を羨望する、そのひそやかな視線を全身に感じた。だが、そうした女性特有の敏感さも、それ等異性の体臭と共に、今日は彼にも快かった。
同時に彼は、昨日以来の突然な幸福を、絹物の肌触りの中で、まるでひと事のように考えていた。恩人の使いが何を意味しているのか、何故にかく、一介の自分が不当の財を受け得たのか、それを考え進めることさえも出来なかった。彼はただ、幸福な夢の中に揺られていた。
電車を乗り換え、乗り捨てると、彼は示された町を訊ねた。そこは山の手の、屋敷の多い通りであった。
何かあるんだな、と彼が思ったのは、暗い町柄にもかかわらず、かなりの人数が右往左往していることだった。しかもひとところ、煌々《こうこう》と無数に臨時燈をかかげ、その真昼のような明るさの中に、青磁色無地、剣かたばみを大きく染め残した式幕で門前を廻らし、その左右に高張りを立てて、静まりかえった大家《たいか》を見た。門前に一台の自動車が置かれていた。
右往左往の人々は、多くはこの家から出たり入ったりした。
宴会かな、とふと高張りの字に眼を止めた彼は、思わずおやッと足を止めた。自分の目的地がそこではないか。
念の為《た》め、行人をとらえてその使《つかい》すべき家がそれであることを確めると、彼は勇敢にも、その式幕を潜って表玄関に達した。
玄関にはテーブルを置き、其処には家令らしい老人が、紙硯を前に羽織袴で控えていた。彼は一度口の中で復習してから、教えられた通りを静かに述べた。
「恩田さんに会わして下さい。急用なんです、伴田からです」
彼は胸がドキドキした。がそれでよかった。
「恩田さんとな、暫時《しばらく》お待ちなさい」
機械のように老人が奥へ行くと、かなり間を置いてから、幼い女中が案内に出た。
「どうぞ、こちらへ」
で、彼が通されたのは奥まった洋室だった。応接室とは見えなかったが、簡素な、茶を呑むに格好な造りだった。
待つ間もなく、細面の上品な老人が這入って来た。やはり羽織袴で、酒の加減であろう、上機嫌に見えた。
「わしが恩田じゃが、あんたが伴田さんかな、うむよく来られた、苦しいところをよく来られた、わしはとうから察して居りますじゃ」
老人の面には、チラと同情の影が通り過ぎた。彼は眼を瞑って云った。
「敏子さんに会わして下さい」
「うむ無理もない、じゃがのう伴田さん、世の中の事はむつかしいもんじゃ、意の如くならんもんじゃ、わしは会わせたいが世間がそうはさせぬ。喃《のお》、此処は此の老人に免じて、一先ず引上げて下さらんか? それも素手とは云わん、無理ではあるが金で辛棒して貰い度いんじゃどうかな?」
彼にはこの対応が、事実であるとは思えなかった。自身其処にありながら、何かの芝居を見ているような気がした。老人が、金を呉れることだけは解った。
「二百円下さい」
彼は思い切って云った。顔全体に血の上るのが感じられた。
「いや、よう聞き分けて下された、お礼を申しますじゃ。これで先ずわしの面目も立つと云うもの、では暫く――」
云い流して室を出たが、老人は直ぐに引返して来た。手には瑞曳《みずひき》をかけた部厚な紙包が持たれていた。
「些少《さしょう》ながら、これに金三百円ありまするじゃ。百円はわしの寸志《すんし》、のお伴田さん、男子は何よりも気骨が大切じゃ。小さな事に有為な生涯を誤らないで、折角勉強して下さい」
彼は一度頭を下げると、おずおずと、冷え切った手先にそれを受け取り、以前の女中に案内されて玄関に出た。そしてすすめられる自動車を断り、駈けるような気持で町を電車通りへぬけた。
彼にはおぼろながら、その金子《きんす》の意味が解ったような気がした。何か慌ただしい気持が腹の中で燃えた。あの婆やと二人切りの住居で、使いの安否を気づかいつつあろう青年伴田氏の、寂しい姿が想像された。いかにすべてを与えると約束されたにしろ、彼にはそのまま、何処かへ行ってしまう気にはなれなかった。それが最初からの考えでもあった。
彼は漸《ようや》く、ガランとした郊外電車に身を委すことが出来た。
5
「ところがねえ、僕が伴田氏の家に帰って見ると、君――」
野々村君は、もう声に涙を含め、そこで言葉を途切らしたのだった。
「帰って見ると?」
つり込まれて、私は思わずこう訊き返した。
「――死んでいたんだ、恩人は死んでいたんだ、剃刀で咽喉を切って――。僕は、僕は身も世もなかった、死体に取りすがって埋もれる程泣きたかった――」
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