「済みません、僕は、僕は何も喰っていないのです」
 彼は、初めて感謝の念をもって答えた。恥しさもなかった。
「何も喰っていない? じゃあ君、僕の家へ行こうじゃあないか」
 友達のような親しさではないか。彼は今日までの貧しさを全部話した。そして自殺する考えではなかったこと、しかし早晩、そうなるような気がする、と率直に付加えた。
「僕も実はねえ」
 と、青年は語尾を濁らしたが、やがて何か考え直した様子で、
「何だったら、僕が君の自殺を買えばいいんだ、それが金のことなら――」
 と、また後は消えてしまった。
 彼はとにかく、青年の好意に甘えることにした。青年は路々、金に困っている若い人々の話を訊いた。そして深い黙考を続けながら歩いた。彼はつとめて虔《つつ》ましく、彼自身や、または同様の運命にあるであろう幾多の青年の、無名の画家の話をした。沈み切った真実を以って、人はパンのみに生くるものにあらず、と云うキリストの言葉が、それ等未成の偉人達には、一番かなしい事実であると云うことを。
 だが彼としては、この不可思議な好意を受け入れる以前に何故この一面識もない青年紳士が、かくも異常な時間に、異常な場所に来合せ、しかも旧知以上の親切をもって、彼のこの、貧しさ寂しさを慰めて呉れるかを、考うべきではなかったろうか。
 ふたりは、やがてその青年の住居へ来た。

     3

 青年の住居と云うのは、その鉄道線路を背景にした新開町の、樹木の多い高地にあって、新しい二階建の、隅から隅まで手の届いた、一見閑雅な建物であった。
 ふたりが玄関の、スリガラスをはめた格子戸の前に立つと、「お帰りなさいませ」と、上品な婆やの顔が、それを内から開いて迎えた。
 彼は二階の六畳に通され、そこで夕食のもてなしを受けた。その食卓がいかに善美に、その品々がどれ程美味に、この哀れなる者の涙を誘ったことであろう。だが彼は、思う三分の一も、それを咽喉に通すことが出来なかった。だが腹は一杯であった。
「君、ゆっくりやって呉れ給えよ」
 そう促して、共に箸を手にしたのであったが、青年は至って物倦《ものう》げな様子で、その貴族的な顔に疲れの色を浮べ、ほとんど食わないと云っていい位少食だった。そこには希望のない人間の、あのなげやりな様が窺われた。彼は青年の様子から、普通人には見ることの出来ぬ、何か巾の広い、弱々しい親し
前へ 次へ
全9ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
橋本 五郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング