かな、うむよく来られた、苦しいところをよく来られた、わしはとうから察して居りますじゃ」
老人の面には、チラと同情の影が通り過ぎた。彼は眼を瞑って云った。
「敏子さんに会わして下さい」
「うむ無理もない、じゃがのう伴田さん、世の中の事はむつかしいもんじゃ、意の如くならんもんじゃ、わしは会わせたいが世間がそうはさせぬ。喃《のお》、此処は此の老人に免じて、一先ず引上げて下さらんか? それも素手とは云わん、無理ではあるが金で辛棒して貰い度いんじゃどうかな?」
彼にはこの対応が、事実であるとは思えなかった。自身其処にありながら、何かの芝居を見ているような気がした。老人が、金を呉れることだけは解った。
「二百円下さい」
彼は思い切って云った。顔全体に血の上るのが感じられた。
「いや、よう聞き分けて下された、お礼を申しますじゃ。これで先ずわしの面目も立つと云うもの、では暫く――」
云い流して室を出たが、老人は直ぐに引返して来た。手には瑞曳《みずひき》をかけた部厚な紙包が持たれていた。
「些少《さしょう》ながら、これに金三百円ありまするじゃ。百円はわしの寸志《すんし》、のお伴田さん、男子は何よりも気骨が大切じゃ。小さな事に有為な生涯を誤らないで、折角勉強して下さい」
彼は一度頭を下げると、おずおずと、冷え切った手先にそれを受け取り、以前の女中に案内されて玄関に出た。そしてすすめられる自動車を断り、駈けるような気持で町を電車通りへぬけた。
彼にはおぼろながら、その金子《きんす》の意味が解ったような気がした。何か慌ただしい気持が腹の中で燃えた。あの婆やと二人切りの住居で、使いの安否を気づかいつつあろう青年伴田氏の、寂しい姿が想像された。いかにすべてを与えると約束されたにしろ、彼にはそのまま、何処かへ行ってしまう気にはなれなかった。それが最初からの考えでもあった。
彼は漸《ようや》く、ガランとした郊外電車に身を委すことが出来た。
5
「ところがねえ、僕が伴田氏の家に帰って見ると、君――」
野々村君は、もう声に涙を含め、そこで言葉を途切らしたのだった。
「帰って見ると?」
つり込まれて、私は思わずこう訊き返した。
「――死んでいたんだ、恩人は死んでいたんだ、剃刀で咽喉を切って――。僕は、僕は身も世もなかった、死体に取りすがって埋もれる程泣きたかった――」
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