、われわれ二人ぎりであるのを見て、やっと安心したように、こっちへ来て自分のそばへ坐れと、わたしを手招きした。
「君は見たね」と、この人の性質とはまったく似合わないような、低い畏《おそ》れたような調子で、彼は訊いた。
「いいえ、何も見ませんでした」
彼の頭は、ふたたびクッションの上に沈んだ。
「いや、いや、望遠鏡を持ってはいなかったろうか」と、彼はつぶやいた。「そんなはずがない。わしに彼女をみせたのは望遠鏡だ。それから愛の眼……あの愛の眼を見せたのだ。ねえ、ドクトル、給仕《スチュワード》を内部へ入れないでくれたまえ。あいつはわしが気が狂ったと思うだろうから。その戸に鍵《かぎ》をかけてくれたまえ。ねえ、君!」
私は起《た》って、彼の言う通りにした。
彼は瞑想に呑み込まれたかのように、しばらくの間じっと横になっていたが、やがてまた肘を突いて起き上がって、ブランディをもっとくれと言った。
「君は、思ってはいないのだね、僕が気が狂っているとは……」
私がブランディの壜《びん》を裏戸棚にしまっていると、彼がこう訊いた。
「さあ、男同士だ。きっぱりと言ってくれ。君はわしが気が狂っていると思うかね」
「船長は何か心に屈託《くったく》があるのではありませんか。それが船長を興奮させたり、また非常に苦労させたりしているのでしょう」と、わたしは答えた。
「その通りだ、君」と、ブランディの効き目で眼を輝かしながら、船長は叫んだ。「全くたくさんの屈託があるのさ。……たくさんある。それでもわしはまだ経緯度を計ることは出来る、六分儀《ろくぶんぎ》も対数表も正確に扱うことが出来る。君は法廷でわしを気違いだと証明することはとうていできまいね」
彼が椅子に倚《よ》りかかって、さも冷静らしく自分の正気なることを論じているのを聞いていると、わたしは妙な心持ちになって来た。
「おそらくそんな証明は出来ないでしょう」と、私は言った。「しかし私は、なるべく早く帰国なすって、しばらく静かな生活を送られたほうがよろしかろうと思います」
「え、国へ帰れ……」と、彼はその顔に嘲笑の色を浮かべて言った。「国へ帰るというのはわしのためで、静かな生活を送るというのは君自身のためではないかね、君。フロラ……可愛いフロラと一緒に暮らすさね。ところで、君、悪夢は発狂の徴候かね」
「そんなこともあります」
「何かそのほかに徴候はないかね。一番最初の徴候は何かね」
「頭痛、耳鳴り、眩暈《めまい》、幻想……まあ、そんなものです」
「ああ、なんだって……?」と、突然に彼はさえぎった。「どんなのを幻想《デルージョン》というのだね」
「そこに無いものを見るのが幻想です」
「だって、あの女はあすこにいたのだよ」と、彼はうめくように言った。「あの女はちゃんとそこにいたよ」
彼は起ち上がってドアをあけ、のろのろと不確かな足取りで、船長室へ歩いて行った。
わたしは疑いもなく、船長は明朝までその部屋にとどまることと思った。彼がみずから見たと思った物がどんなものであるとしても、彼のからだは非常な衝動《ショック》を受けたようである。
船長は日毎《ひごと》にだんだんおかしくなってくる。わたしは彼自身が暗示したことが本当のことであり、またその理性が冒《おか》されているのを恐れた。彼が自己の行為に関して、何か良心の呵責《かしゃく》を受けているのであると、わたしは思われない。こんな考えは、高級船員などの間ではありふれた考え方であり、また普通船員のうちにあってもやはり同様であると信じられる。しかし私は、この考え方を主張するに足るべき何物をも見たことがない。彼には、罪を犯した人のような様子は少しも見えない。かれは苛酷な運命の取り扱いを受けて、罪人というよりはむしろ殉教者と認むべき人のような様子が多く見られるのであった。
今夜の風は南にむかって吹き廻っている。ねがわくば、われわれが唯一《ゆいいつ》の安全航路であるところの、あの狭い通路が遮断されないように――。大北極の氷群、すなわち捕鯨者のいわゆる「関所《バリアー》」のはしに位してはいるが、どんな風でも北さえ吹けば、われわれの周囲の氷を粉砕して、われわれを助けてくれることになる。南の風は解けかかった氷をみなわれわれのうしろへ吹きよせて、二つの氷山の間へわれわれを挾むのである。どうぞ助かるようにと、私はかさねて言う。
九月十四日。日曜日にして、安息日。わたしの気遣っていたことが、いよいよ実際となって現われた。
唯一の逃げ道であるべき碧《あお》い細長い海水の通路が、南の方から消えてきた。怪しげな氷丘と、奇妙な頂端を持って動かない一大氷原が、吾人の周囲につらなるのみである。恐ろしいその広原を蔽《おお》うものは、死のごとき沈黙である。今や一つのさざなみもなく、海の鴎《かもめ》の鳴く声もきこえず、帆を張った影もなく、ただ全宇宙にみなぎる深い沈黙があるばかりである。
その沈黙のうちに、水夫らの不平の声と、白く輝く甲板の上にかれらの靴のきしむ音とが、いかにも不調和で不釣合いに響くのである。ただ訪れたものは一匹の北極狐《アークチック・フォックス》のみで、これも陸上では極めてありふれたものであるが、氷群の上にはまれである。しかしその狐も船に近づかず、遠くから探るような様子をしたのちに、氷を超えて速《すみや》かに逃げ去ってしまった。これは不思議な行動というべきで、北極の狐は一般に人間をまったく知らず、また穿索《せんさく》好きの性質であるので、容易に捕えられるほど非常に慣れ近づくものであるからである。信ぜられないことのようであるが、この際こんな些細《ささい》な事件でさえも、船員らには悪影響を及ぼしたのであった。
「あの清浄な動物は怪物を知っている。そうだ。われわれを見てではなく、あの魔物を見たからなのだ」というのが、主だった魚銛発射手《もりうち》の一人の注釈であった。そうして、その他の者も皆それに同意を示したので、こんな他愛もない迷信に反対しようとする者さえも、まったく無益のことであった。かれらはこの船の上には呪いがあると信じ、そうして、たしかにそうであると決定してしまったのである。
船長は午後の約三十分、後甲板へ出てくる以外は、終日《しゅうじつ》自分の部屋にとじこもっていた。わたしは彼が後甲板で、きのう、かの幻影が現われた場所をじっと見入っているのを見たので、またどうかするのではないかとじゅうぶん覚悟していたが、別に何事も起こらなかった。私はそのそば近くに立っていたが、彼はかつて私を見る様子もなかった。
機関長がいつものごとくに祈祷をした。捕鯨船のうちで、イングランド教会の祈祷書が常に用いられるのはおかしなことである。しかも高級船員のうちにも、普通船員のうちにも、けっしてイングランド教会の者はいないのである。われわれは天主教徒《ローマン・カトリック》か長老教会派《プレスビテリアンス》のもので、天主教徒が多数を占めている。そこで、どちらの信徒にも異なる宗派の儀式が用いられているのであるから、いずれも自分たちの儀式がいいなどと苦情を言うことも出来ない。そうして、そのやりかたが気に入ったものであれば、かれらは熱心に傾聴するのである。
かがやく日没の光りが、大氷原を血の湖《うみ》のように彩《いろど》った。私はこんな美しい、またこんな気味の悪い光景を見たことがない。風は吹きまわしている。北風が二十四時間吹くならば、なお万事好都合に運ぶであろう。
四
九月十五日。きょうはフロラの誕生日なり。愛する乙女《おとめ》の君よ。君のいわゆるボーイなる私が、頭の狂った船長のもとに、わずか数週間の食物しかなくて、氷のうちにとじこめられているのが、君にはむしろ見えないほうがいいのである。うたがいもなく、彼女はシェットランドからわれわれの消息が報道されているかどうかと、毎朝スコッツマン紙上の船舶欄を、眼を皿にして見ていることであろう。わたしは船員たちに手本を示すために、元気よく、平静をよそおっていなければならない。しかも神ぞ知ろしめす。――わたしの心は、しばしば甚《はなは》だ重苦しい状態にあることを――。
きょうの温度は華氏十九度、微風あり。しかも不利なる方向より吹く。船長は非常に機嫌がいい。彼はまた何かほかの前兆か幻影を見たと想像しているらしい。ゆうべは夜通し苦しんだらしく、けさは早くわたしの室《へや》へ来て、わたしの寝棚によりかかりながら、「あれは妄想であったよ。君、なんでもないのだよ」と、ささやいた。
朝食後、彼は食物がまだどれほどあるかを調べて来るように、わたしに命じたので、早速二等運転士とともに行ったところ、食物は予期したよりも遙かに少なかった。船の前部に、ビスケットの半分ばかりはいったタンクが一つと、塩漬けの肉が三樽、それから極めてわずかのコーヒーの実と、砂糖とがある。また、後船鎗と戸棚の中とに、鮭の鑵詰、スープ、羊肉の旨煮《うまに》、その他のご馳走がある。しかし、それとても五十人の船員が食ったらば、瞬《またた》くひまに無くなってしまうことであろう。なお貯蔵室に粉《こな》二樽と、それから数の知れないほどに煙草がたくさんある。それら全体を引っくるめたところで、各自の食量を半減して、約十八日|乃至《ないし》二十日間ぐらいを支え得るだけのものがある――おそらく、それ以上はとうてい困難であろう。
われわれ両人がこの事情を報告すると、船長は全員をあつめて、後甲板の上から一場の訓示を試みた。私はこの時ほどの立派な彼というものを今まで見たことがない。丈高く引きしまった体躯、色やや浅黒く溌剌たる顔、彼はまさに支配者として生まれて来たもののようであった。彼は冷静な海員らしい態度で、諄《じゅん》じゅんとして現状を説いた。その態度は、一方に危険を洞察しながら、他方にありとあらゆる脱出の機会を狙っていることを示すものであった。
「諸君」と、彼は言った。「諸君はうたがいもなく、この苦境に諸君をおとしいれたものは、このわしであると思っていられるであろう。そうして、おそらく諸君のうちにはそれを苦《にが》にがしく思っている者もあるであろう。しかし多年の間、このシーズンにここへ来る船のうちで、どの船であろうとも、わが北極星号のごとく多くの鯨油の金をもたらしたものはなく、諸君も皆その多額の分配にあずかってきたことを、心にきざんでおいてもらわなければならない。意気地《いくじ》なしの水夫どもは娘っ子たちに会いたがって村へ帰ってゆくのに、諸君らは安んじてその妻をあとに残しておいて来たのである。そこで、もし諸君が金儲けが出来たためにわしに感謝しなければならぬというのならば、この冒険に加わって来たことに対しても、当然、わしに感謝していいはずで、つまりこれはお互いさまというものである。大胆な冒険を試みて成功したのであるから、今また一つの冒険を企てて失敗しているからといって、それをとやかく言うにはあたらない。たとい最も悪い場合を想像してみても、われわれは氷を横切って陸に近づくことも出来る。海豹《あざらし》の貯蔵のなかに臥《ね》ていれば、春まではじゅうぶん生きてゆかれる。しかし、そんな悪いことはめったに起こるものでない。三週間と経たないうちに、諸君は再びスコットランドの海岸を見るであろう。それにしても現在においては、いやとも各自の食量を半減してもらわなければならない。同じように分配して、誰も余計にとるようなことがあってはならない。諸君は心を強く持ってもらいたい。そうして、以前に多くの危険を凌《しの》いできたように、この後なおいっそうの努力をもってそれを防がなければならない」
彼のこの言葉は、船員らに対して驚くべき効果をあたえた。今までの彼の不人気は、これによってすっかり忘れられてしまった。迷信家の魚銛発射手の老人がまず万歳を三唱すると、船員一同は心からこれに合唱したのであった。
九月十六日。風は夜の間に北に吹き変わって、氷は解《と》けそうな徴候を示した。食糧を大いに制限されたにもかかわらず、
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