世界怪談名作集
北極星号の船長 医学生ジョン・マリスターレーの奇異なる日記よりの抜萃
ドイル Arthur Conan Doyle
岡本綺堂訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)氷錨《アイス・アンカー》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一度|罵《ののし》ったあとに、

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)うみうし[#「うみうし」に傍点]などが
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       一

 九月十一日、北緯八十一度四十分、東経二度。依然、われわれは壮大な氷原の真っただ中に停船す。われわれの北方に拡がっている一氷原に、われわれは氷錨《アイス・アンカー》をおろしているのであるが、この氷原たるや、実にわが英国の一郡にも相当するほどのものである。左右一面に氷の面が地平の遙か彼方《かなた》まで果てしなく展《ひろ》がっている。けさ運転士は南方に氷塊の徴候のあることを報じた。もしこれがわれわれの帰還を妨害するに十分なる厚さを形成するならば、われわれは全く危険の地位にあるというべきで、聞くところによれば、糧食は既にやや不足を来たしているというのである。時あたかも季節《シーズン》の終わりで、長い夜が再びあらわれ始めて来た。けさ、前檣下桁《フォア・ヤード》の真上にまたまた星を見た。これは五月の初め以来最初のことである。
 船員ちゅうには著《いちじ》るしく不満の色がみなぎっている。かれらの多くは鯡《にしん》の漁猟期に間に合うように帰国したいと、しきりに望んでいるのである。この漁猟期には、スコットランドの海岸地方では、労働賃金が高率を唱えるを例とする。しかし、かれらはその不満をただ不機嫌な容貌《ようぼう》と、恐ろしい見幕《けんまく》とで表わすばかりである。
 その日の午後になって、かれら船員は代理人を出して船長に苦情を申し立てようとしているということを二等運転士から聞いたが、船長がそれを受け容れるかどうかは甚《はなは》だ疑わしい。彼は非常に獰猛《どうもう》な性質であり、また彼の権限を犯すようなことに対しては、すこぶる敏感をもっているからである。夕食のおわったあとで、わたしはこの問題について船長に何か少し言ってみようと思っている。従来彼は他の船員に対していきどおっているような時でも、わたしにだけはいつも寛大な態度を取っていた。
 スピッツバーゲンの北西隅にあるアムステルダム島は、わが右舷のかたに当たって見える――島は火山岩の凹凸《おうとつ》線をなし、氷河を現出している白い地層線と交叉《こうさ》しているのである。一直線にしても優に九百マイルはある。グリーンランド南部のデンマーク移住地より近い処には、おそらくいかなる人類も現在棲息していないことを考えると、実に不思議な心持ちがする。およそ船長たるものは、その船をかかる境遇に瀕《ひん》せしめたる場合にあっては、みずから大いなる責任を負うべきである。いかなる捕鯨船もいまだかつてこの時期にあって、かかる緯度の処にとどまったことはなかった。
 午後九時、私はとうとうクレーグ船長に打ち明けた。その結果はとうてい満足にはゆかなかったが、船長は私の言わんとしたことを、非常に静かに、かつ熱心に聴いてくれた。わたしが語り終わると、彼は私がしばしば目撃した、かの鉄のような決断の色を顔に浮かべて、数分間は狭い船室をあちらこちちと足早に歩きまわった。最初わたしは彼をほんとうに怒らせたかと思ったが、彼は怒りをおさえて再び腰をおろして、ほとんど追従《ついしょう》に近い様子でわたしの腕をとった。その狂暴な黒い眼は著るしく私を驚かしたが、その眼のうちにはまた深いやさしさも籠《こも》っていた。
「おい、ドクトル」と、彼は言い出した。「わしは実際、いつも君を連れて来るのが気の毒でならない。ダンディ埠頭《クエイ》にはもうおそらく帰れぬだろうなあ。今度という今度は、いよいよ一《いち》か八《ばち》かだ。われわれの北の方には鯨がいたのだ。わしは檣頭《マストヘッド》から汐《しお》を噴《ふ》いている鯨のやつらをちゃんと見たのだから、君がいかに頭《かぶり》を横にふっても、そりゃあ駄目だ」
 わたしは別にそれを疑うような様子は少しも見せなかったつもりであったが、彼は突然に怒りが勃発したかのように、こう叫んだ。
「わしも男だ。二十二秒間に二十二頭の鯨! しかも鬚《ひげ》の十フィート以上もある大きい奴をな!(捕鯨者仲間では鯨を体の長さで計らず、その鬚の長さで計るのである)
 さて、ドクトル。君はわしとわしの運命とのあいだに多寡《たか》が氷ぐらいの邪魔物があるからといって、わしがこの国を去られると思うかね。もし、あしたにも北風が吹こうものなら、われわれは獲物を満載して結氷前に帰るのだ。が、南風《みなみ》が吹いたら……そうさ、船員はみんな命を賭けなければならんと思うよ。もっとも、そんなことは、わしにはたいしたことでもないのだ。なぜと言えば、わしにとってはこの世界よりも、あの世のほうが余計に縁がありそうなのだからね。だが、正直のところ君にはお気の毒だ。わしはこの前われわれと一緒に来たアンガス・タイト老人を連れて来ればよかった。あれならたとい死んでも憎まれはしないからな。ところで、君は……君は、いつか結婚したと言ったっけねえ」
「そうです」と、わたしは時計の鎖についている小盒《ロケット》のバネをぱくりとあけて、フロラの小さい写真を差し出して見せた。
「畜生!」と、彼は椅子から飛びあがって、憤怒の余りに顎鬚《あごひげ》を逆立てて叫んだ。「わしにとって、君の幸福がなんだ。わしの眼の前で、君が恋《れん》れんとしているようなそんな写真の女に、わしがなんの係り合いがあるものか」
 彼は怒りのあまりに、今にもわたしを撲《う》ち倒しはしまいかとさえ思った。しかも彼はもう一度|罵《ののし》ったあとに、船長室のドアを荒あらしく突きあけて甲板《デッキ》へ飛び出してしまった。
 取り残された私は、彼の途方もない乱暴にいささか驚かされた。彼がわたしに対して礼儀を守らず、また親切でなかったのは、この時がまったく初めてのことであった。私はこの文を書きながらも、船長が非常に興奮して、頭の上をあっちこっちと歩きまわっているのを聞くことが出来る。
 わたしはこの船長の人物描写をしてみたいと思うが、わたし自身の心のうちの観念が精《せい》ぜいよく考えて見ても、すでに曖昧糢糊《あいまいもこ》たるものであるから、そんなことを書こうなどというのは烏滸《おこ》がましき業《わざ》だと思う。私はこれまで何遍も、船長の人物を説明すべき鍵《かぎ》を握ったと思ったが、いつも彼はさらに新奇なる性格をあらわして私の結論をくつがえし、わたしを失望させるだけであった。おそらく私以外には、誰しもこんな文句に眼をとめようとする者はないであろう。しかも私は一つの心理学的研究として、このニコラス・クレーグ船長の記録を書き残すつもりである。
 およそ人の外部に表われたところは、幾分かその内の精神を示すものである。船長は丈《たけ》高く、均整のよく取れた体格で、色のあさ黒い美丈夫である。そうして、不思議に手足を痙攣的に動かす癖がある。これは神経質のせいか、あるいは単に彼のありあまる精力の結果からかもしれぬ。口もとや顔全体の様子はいかにも男らしく決断的であるが、その眼はまがうべくもなしに、その顔の特徴をなしている。二つの眼は漆黒《しっこく》の榛《はしばみ》のようで、鋭い輝きを放っているのは、大胆を示すものだと私は時どきに思うのであるが、それに恐怖の情の著るしく含まれたように、何か別種のものが奇妙にまじっているのであった。大抵の場合には大胆の色がいつも優勢を占めているが、彼が瞑想にふけっているような場合はもちろん、時どきに恐怖の色が深くひろがって、ついにはその容貌全体に新しい性格を生ずるに至るのである。彼はまったく安眠することが出来ない。そうして、夜なかにも彼が何か呶鳴《どな》っているのをよく聞くことがある。しかし船長室はわたしの船室から少し離れているので、彼の言うことははっきりとは分からなかった。
 まずこれが彼の性格の一面で、また最も忌《いや》な点である。私がこれを観察したのも、畢竟《ひっきょう》は現在のごとく、彼とわたしとが日《にち》にち極めて密接の間柄にあったからにほかならない。もしそんな密接な関係が私になかったならば、彼は実に愉快な僚友であり、博識でおもしろく、これまで海上生活をした者としては、まことに立派なる海員の一人である。わたしはかの四月のはじめに、解氷のなかで大風《ゲール》に襲われた時、船をあやつった彼の手腕を容易に忘れ得ないであろう。電光のひらめきと風のうなりとの真っ最中に、ブリッジを前後に歩き廻っていたその夜の彼のような、あんな快活な、むしろ愉快そうに嬉嬉《きき》としていたところの彼を、わたしはかつて見たことがない。彼はしばしば私に告げて、死を想像することはむしろ愉快なことだ、もっとも、これは若い者たちに語るのはあまり芳《かん》ばしくないことではあるが――と言っている。
 彼は髪も髭《ひげ》もすでに幾分か胡麻塩《ごましお》となっているが、実際はまだ三十を幾つも出ているはずはない。思うにこれは、何かある大きな悲しみが彼をおそって、その全生涯を枯らしてしまったのに相違ない。おそらく私もまた、もし万一わがフロラを失うようなことでもあったら、全くこれと同じ状態におちいることであろう。私は、これが彼女の身の上に関することでなかったなら、あしたに風が北から吹こうが、南から吹こうが、そんなことはちっとも構わないと思う。
 それ、船長が明かり窓を降りて来るのが聞こえるぞ。それから自分の部屋にはいって錠《じょう》をかけたな。これはまさしく、彼の心がまだ解けない証拠なのだ。それでは、どれ、ペピス爺さんがいつも口癖に言うように、寝るとしようかな。蝋燭ももう燃え倒れようとしている。それに給仕《スチュワード》も寝てしまったから、もう一本蝋燭にありつく望みもないからな――。

       二

 九月十二日、静穏なる好天気。船は依然おなじ位置に在り。すべて風は南西より吹く。但《ただ》し極めて微弱なり。船長は機嫌を直して、朝食の前に私にむかって昨日の失礼を詫《わ》びた。――しかし彼は今なお少しく放心の態《てい》である。その眼にはかの粗暴の色が残っている。これはスコットランドでは「死《デス》」を意味するものである。――少なくともわが機関長は私にむかってそう語った。機関長はわが船員中のケルト人のあいだには、前兆を予言する人として相当の声価を有しているのである。
 冷静な、実際的なこの人種に対して、迷信がかくのごとき勢力を有していたのは、実に不思議である。もし私がみずからそれを観たのでなかったらば、その迷信が非常に拡がっていることを到底《とうてい》信じ得なかったであろう。今度の航海で、迷信はまったく流行してしまった。しまいには私もまた、土曜日に許されるグロッグ酒と適量の鎮静薬と、神経強壮剤とをあわせ用いようかと、心が傾いてくるのを覚えてきた。迷信のまず最初の徴候はこうであった――。
 シェットランドを去って間もなく舵輪《ホイール》にいた水夫たちが、何物かが船を追いかけて、しかも追いつくことが出来ないかのように、船のあとに哀れな叫びと金切り声をあげているのを聞いたと、しばしば繰り返して話したのがそもそも始まりであった。
 この話はその航海が終わるまでつづいた。そうして、海豹《あざらし》漁猟開始期の暗い夜など、水夫らに輪番《りんばん》をさせるには非常に骨が折れたのであった。疑いもなく、水夫らの聞いたのは、舵鎖《ラダー・チェイン》のきしる音か、あるいは通りすがりの海鳥の鳴き声であったろう。わたしはその音を聞くために、いくたびか寝床から連れて行かれたが、なんら不自然なものを聞き分けることは出来なかった。しかし水夫らは、ばかばかしい程《ほど》にそれを信じていて、とうてい議論の余地がないのであった。わ
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