茶苦茶に僕を蹴り、それから両手で虚空をつかんだ。しかしそうして彼が、死に物狂いの努力をしたにもかかわらず、身体の平均はますます崩れて、遂に転落してしまったと云う始末さ。僕は断崖の縁から顔をのぞかせて、長い距離を転落してゆくのを眺めた。彼の身体は一度は、大きな岩に打ちつけられ、それから大きく跳ね上りざま、ざんぶと水に落ちて行ってしまったのだ」
 私はただ驚異の目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りながら、彼の言葉に傾聴した。ホームズはまた、煙草の煙をぷっぷっと上げながら話しつづける、――
「しかし君あの足跡は、――?」
 私は言葉をさしはさんだ。
「僕はたしかにこの目で、二人が小径を下りて行って、あとそのどちらも帰って来ないことを、見届けたのだがね」
「それはこう云うわけさ。モリアーティ教授が転落してもう姿が消えてしまった瞬間には、全く何と云う僥倖が恵まれたのであろうと思われたよ。しかし僕はまた、僕の命を狙いに狙っている者は、決してモリアーティ教授ばかりではないと云うことは知悉していた。少なくとも三人以上の者が、その主領の死によって、ますます復讐の瞋恚《しんい》に燃えて、僕を呪い狙っているのであった。この連中はいずれも、恐るべき人間共だからね。その中の誰かは、たしかに僕を仕止め得たかもしれなかった。しかしまた、一面から云えば、もう全社会が僕の死を信ずるようになれば、この連中とても自儘になって、その行動も現《あらわ》になって来る、――そうすると僕はいずれ早晩彼等を撃滅することが出来ることになる。こうしてから僕は自分が、たしかにまだ現世に踏み止まっていると云うことを世間に発表することにする。僕は実際、人間の頭と云うものも、実に敏感に働くものだと思うが、僕はこれだけのことを、モリアーティ教授が、転落してライヘンバッハ瀑布の水底に、達するまでの間に考えついてしまったのだ。
 それから僕は起き上って、背後の岩壁を検《しら》べてみた。僕が数ヶ月の後に、実に興味深く読んだ、君のこの事件に対する絵を見るような記録には、その岩壁は、切り立てたようであったと記されてあったが、しかしあれは必ずしも、文字通りには正しくはなかったのだ。二三ヶ処、足掛りになるようなものもあったし、また、窪地さえもあったのだ。確にその高さは大したもので、とても一気に上らるべきものでもなかったし、
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