それを火の中に投げこんでしまったのでした。その後は別に彼の女はそれについて何も云いませんでしたし、私もまた約束にしたがって、そのことについては一言も触れませんでした。しかし彼の女は、それ以来はずっと、一つの不安にとざされていて、とかく顔色が浮かなくなり、何ごとかにビクビクしているようでした。まあ俺を信ずるがよい。俺こそは彼の女の、最もよい伴侶なのだ。私はそう思っていました。しかし彼の女が云い出すまでは、私は切り出すことは出来ません。しかしホームズさん、くれぐれもお含みを願いたいのですが、彼の女はたしかに真実な女性で、もし彼の女の過去に、何か難題のようなものがあるとしても、それは彼の女の欠点ではないと思うのです。私はただノーフォークの田舎者にすぎないのですが、しかしそれでも、英国では第一流の旧家であると云うことは、彼の女はよく知っており、また結婚前からも認めていましたから、まさか彼の女は、その私の家名を汚すようなことは、万々《ばんばん》無いと私は確信するのです。
 さていよいよこれから、私の話は、奇怪な部分に進みますが、一週間ばかり前、――そうです先週の火曜日でした。私は窓硝子の上に、この紙に画いてあるような、出鱈目《でたらめ》な小さな、踊っているような姿が、画かれてあるのを発見したのでした。それは白墨でいたずら画きしたものでしたが、私は厩《うまや》番の少年がかいたのだろうと思いました、その若者は、全く知らないと云いはるのでした。とにかくそれは夜かかれたものでしたが、私はそれを洗い落してから、このことを妻に話しました。ところが驚いたことには、妻はそんなものを大変重大視して、もしまた画かれたら、ぜひ見たいと云うのでした。それから、一週間の間は、そんなものは画かれませんでしたが、ちょうど昨日の朝、またまた私は、庭園の日時計の上に、この紙片がおかれてあるのを見つけたのでした。私はそれをエルシーに見せましたら、彼の女は気絶して倒れてしまったのでした。それ以来彼の女は、全く茫然としてしまって、いつも恐怖にとりつかれた目色をしているのです。それでその時に私は、この紙片をあなたにお送りして、手紙をさし上げた次第でした。これはまさか警察に訴えても、ただ笑いものにされて、取りあってくれますまいし、あなたでしたら何とか方法を教えて下さるだろうと考えたのでした。私は決して金持ではありませんが、しかし何か私の妻を悩ましているものがあるとしたら、私は彼女を全財産を賭しても、保護してやりたいと思うのですが――」
 古いイギリスっ児のこの人間は、単純で卒直で、目は大きく熱意のこもった、堂々たる風貌の紳士であった。彼がその妻に対する愛情と信実は、外部にまで溢れ出ていた。ホームズは全注意を集めて、この話を聞いていたが、この話が終ると、しばしの間は、静《じ》っと沈黙したまま思案に沈んだ。
「いや、キューピットさん、――」
 彼はようやく口を開いた。
「これはやはり、あなたが直接に奥さんにお訊ねになって、あなたに対して秘《かく》されていたことを、話してもらうのが一番早道ではないかと思われますがね」
 ヒルトン・キューピットはしかし、その大きな頭を振った。
「ホームズさん、約束はどこまでも約束ですからね。もしエルシーが、話していいと思うくらいでしたら、彼から話してくれるでしょう。そしてまたもし話したくないことでしたら、私は彼の女に対して強要はしたくはありません。しかしそれと離れても、私には私で取るべき道はあるはずです。そしてそれを私は大《おおい》にやろうと思うのです」
「いや、そう云うのでしたら、私も全力をつくして御相談に与《あずか》りましょう。まずお訊ねしますが、この頃からあなたの御近所に、新に来た者があるようなことはお聞きになりませんか?」
「いえ」
「大変閑静なところだろうと思われますが、新顔などが現われて、人々の噂に上るようなことがありますか?」
「えい、そうそうごく近所にありました。しかし私共の近所には、湯治場《とうじば》があるので、よく田舎者共が宿をとります」
「この象形文字は、たしかに意味がありましょう。もし全く出鱈目なものだとすれば、それはもうとても解釈が出来ませんが、しかしこれが組織的なものだとすれば、きっとどうにかして解くことが出来ますよ。しかし何しろこれはひどく短いもので、どうにも仕様が無いし、またあなたが持って来られた事柄も、はなはだ漠然としたことで、考査の基本にはなりませんからね。やはりこれはあなたが、一度ノーフォークにお帰りになって、注意深く監視をして、もう一度この踊り人の姿が現われた時に、正しく写し取った方がいいと思いますがね。先に窓硝子に画かれたものの写しを、見ることの出来ないのははなはだ遺憾ですが、いずれ近所に最近に現われた者に対して
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