《これ》を救《すく》ふものも又《また》吾輩《わがはい》でなければ不可《いけな》い。然《しか》も彼《かれ》を連《つ》れ返《かへ》る道《みち》は、丁《ちやん》と最《も》う着《つ》いて居《ゐ》るんだ。唯《たゞ》少時《しばらく》の辛抱《しんばう》です。いや/\、決《けつ》して貴下方《あなたがた》が御辛抱《ごしんばう》なさるには及《およ》ばん。辛抱《しんばう》をするのはお浦《うら》だ、可哀想《かあいさう》な婦《をんな》だ。我慢《がまん》をしてくれ、お浦《うら》、腕《うで》は確《たしか》だ。』
と、掌《てのひら》を開《ひら》いて、ぱつ、と出《だ》す。と一同《いちどう》はどさ/\と又《また》退《すさ》つた。吃驚《びつくり》して泥田《どろた》へ片脚《かたあし》落《おと》したのもある、……ばちやりと音《おと》して。……
『気《き》が違《ちが》つた。』
『変《へん》だ。』
『真物《ほんもの》だ。』……と囁《さゝや》き合《あ》ふ。
祠《ほこら》
二十八
狂気《きやうき》した、変《へん》だ、と云《い》ふのは言葉《ことば》の切目毎《きれめごと》に耳《みゝ》に入《はい》つた。が、これほど確《たしか》な事《こと》を、渠等《かれら》は雲《くも》を掴《つか》むやうに聞《き》くのであらう。我《われ》は手《て》に握《にぎ》つて、双《さう》の眼《まなこ》で明《あきら》かに見《み》る采《さい》の目《め》を、多勢《たぜい》が暗中《あんちゆう》に摸索《もさく》して、丁《ちやう》か、半《はん》か、生《せい》か、死《し》か、と喧々《がや/\》騒《さわ》ぎ立《た》てるほど可笑《をかし》な事《こと》は無《な》い。
『はゝゝ、大丈夫《だいじやうぶ》、心配《しんぱい》は無《な》いと云《い》ふに、――お浦《うら》の所在《ありか》も、救《すく》ふ路《みち》も、すべて掌《たなごゝろ》の中《うち》に在《あ》る。吾輩《わがはい》が掴《つか》んで居《ゐ》る。要《えう》は唯《たゞ》掴《つか》んだ此《こ》の手《て》を開《ひら》く時間《じかん》を待《ま》つ事《こと》だ。――今《いま》開《ひら》け、と云《い》つても然《さ》うは不可《いか》ん。唯《たゞ》、開《ひら》くのではない、開《ひら》いてお浦《うら》の掌《てのひら》へ返《かへ》すんだ、いや/\彫像《てうざう》の拳《こぶし》に納《おさ》めるんだ。』
と、益々《ます/\》こんがらかつて、自分《じぶん》にも分《わか》らなく成《な》る。先方《さき》のきよとつくだけ此方《こつち》は苛立《いらだ》つ。言《い》へば言《い》ふほど枝葉《えだは》が茂《しげ》つて、路《みち》が岐《わか》れて谷《たに》が深《ふか》く、野《の》が広《ひろ》く、山《やま》が高《たか》く成《な》つて、雲《くも》が湧《わ》き出《だ》す、霞《かすみ》がかゝる、果《はて》は焦込《じれこ》んで、空《くう》を打《う》つて、
『皆《みんな》、これだ。』
と高《たか》い処《ところ》から揮下《ふりお》ろした拳《こぶし》の中《なか》に、……采《さい》を掴《つか》んで居《ゐ》た事《こと》は云《い》ふまでも無《な》い。
『……狂人《きちがひ》でも何《なん》でも構《かま》はん。自分《じぶん》が生命《いのち》がけの女房《にようばう》を自分《じぶん》が救《すく》ふに間違《まちがひ》は有《あ》るまい。凡《すべ》て任《まか》して貰《もら》はう。何《なん》でも私《わたし》のするまゝに為《さ》して下《くだ》さい。……
処《ところ》で、私《わたし》が、お浦《うら》を救《すく》ふ道《みち》として、進《すゝ》むべき第一歩《だいいつぽ》は、何処《どこ》でも可《い》い、小家《こいへ》を一軒《いつけん》探《さが》す事《こと》だ。小家《こや》でも可《いゝ》、辻堂《つじだう》、祠《ほこら》でも構《かま》はん、何《なん》でも人《ひと》の居《ゐ》ない空屋《あきや》が望《のぞ》みだ。
何《なに》、そんな処《ところ》にお浦《うら》が居《ゐ》るか、と……詰《つま》らん事《こと》を――お浦《うら》の居処《ゐどころ》は居処《ゐどころ》で話《はなし》が違《ちが》う。空家《あきや》を探《さが》すのは私《わたし》が探《さが》して私《わたし》が其処《そこ》へ入《はい》るんだ。――所帯《しよたい》を持《も》つのぢやない。……えゝ、落着《おちつ》いて、聞《き》かなければ不可《いか》ん。
宜《よろし》いかね、此《これ》を要《えう》するに、少《すくな》くとも空屋《あきや》に限《かぎ》る……有《あ》りますか、人《ひと》の居《ゐ》ない小家《こや》はあるか。有《あ》れば、其処《そこ》へ行《ゆ》く。これから此《こ》の足《あし》で直《す》ぐに行《ゆ》きます。――宿《やど》へ帰《かへ》つて一先《ひとま》づ落着《おちつ》け? ……呑気《のんき》な事《こと》を。落着《おちつ》いて相談《さうだん》と? ……此《こ》の上《うへ》何《なん》の相談《さうだん》を為《す》るんです。お浦《うら》を救《すく》ふのには一刻《いつこく》を争《あらそ》ふ、寸秒《すんべう》を惜《をし》む。早速《さつそく》さあ、人《ひと》の居《ゐ》ない小家《こや》、辻堂《つじだう》、祠《ほこら》、何《なん》でも構《かま》はん、其処《そこ》へ行《ゆ》かう。行《い》つて直《す》ぐに仕事《しごと》にかゝる。が、誰《たれ》も来《き》ては不可《いけな》い、屹《きつ》と来《き》ては不可《いけな》い、いづれ、やがて其《そ》の仕事《しごと》が出来《でき》ると、お浦《うら》と一所《いつしよ》に、諸共《もろとも》にお目《め》に懸《かゝ》つて更《あらた》めて御挨拶《ごあいさつ》をする。
しかし、恁《か》う言《い》ふのを信《しん》じないで、私《わたし》に任《ま》かせることを不安心《ふあんしん》と思《おも》ふなら、提灯《ちやうちん》の上《うへ》に松明《たいまつ》の数《かず》を殖《ふや》して、鉄砲《てつぱう》持参《じさん》で、隊《たい》を造《つく》つて、喇叭《らつぱ》を吹《ふ》いてお捜《さが》しなさい、其《それ》は御勝手《ごかつて》です。』
と嘲《あざ》けるやうに又《また》アハアハ笑《わら》ふ。いや、気味《きみ》の悪《わる》い……
『あれ、天狗様《てんぐさま》が憑移《のりうつ》らしやつた。』
『魔道《まだう》に墜《お》ちさしたものだんべい。』
と密《ひそめ》いて言《い》ふのが聞《きこ》えた。
が、最《も》う、そんな事《こと》に頓着《とんぢやく》しない。人間《にんげん》などには目《め》も懸《か》けないで、暗《くら》い中《なか》を矢鱈《やたら》に、其処等《そこいら》の樹《き》を眺《なが》めた。刻《きざ》むに佳《い》い枝《えだ》や、幹《みき》や、と目《め》を光《ひか》らす……これも眼前《がんぜん》、魔《ま》に心《こゝろ》を通《かよ》はす挙動《きよどう》の如《ごと》くに見《み》えたであらう。
けれども言出《いひだ》した事《こと》は、其《そ》の勢《いきほひ》だけに誰一人《たれいちにん》深切《しんせつ》づくにも敢《あへ》て留《と》めやうとするものは無《な》く、……其《そ》の同勢《どうぜい》で、ぞろ/\と温泉宿《をんせんやど》へ帰《かへ》る途中《とちゆう》、畷《なはて》を片傍《かたわき》に引込《ひつこ》んだ、森《もり》の中《なか》の、とある祠《ほこら》へ、送込《おくりこ》んだ……と言《い》ふよりは、づか/\踏込《ふみこ》んだ。後《あと》に踵《つ》いて来《き》て、渠等《かれら》は狐格子《きつねがうし》の外《そと》で留《と》まつたのである。
提灯《ちやうちん》を一個《ひとつ》引奪《ふんだく》つて、三段《さんだん》ばかりある階《きざはし》の正面《しやうめん》へ突立《つゝた》つて、一揆《いつき》を制《せい》するが如《ごと》く、大手《おほて》を拡《ひろ》げて、
『さあ、皆《みんな》帰《かへ》れ。而《そ》して誰《たれ》か宿屋《やどや》へ行《い》つて、私《わたし》の大鞄《おほかばん》を脊負《しよ》つて来《き》て貰《もら》はう。――中《なか》にすべて仕事《しごと》に必要《ひつえう》な道具《だうぐ》がある。……私《わたし》は最《も》う、あの座敷《ざしき》へ入《はい》つて、脱《ぬ》いである衣服《きもの》、解《と》いてある紅《あか》い扱帯《しごき》を見《み》るに忍《しの》びん。……彼《かれ》が魔物《まもの》の手《て》に懸《かゝ》つて、身悶《みもだ》へしながら、帯《おび》からはじめて解《と》き去《さ》らるゝのを目《め》の前《まへ》に見《み》るやうだから。』
親類《しんるゐ》の一人《いちにん》、インバネスを着《き》た男《をとこ》が真前《まつさき》に立《た》つて、皆《みな》ぞろ/\と帰《かへ》つた。……其《そ》の影《かげ》が潜《くゞ》つて出《で》る、祠《ほこら》の前《まへ》の、倒《たふ》れかゝつた木《き》の鳥居《とりゐ》に張《は》つた、何時《いつ》の時《とき》のか、注連縄《しめなは》の残《のこ》つたのが、二《ふた》ツ三《み》ツのたくつて、づらりと懸《かゝ》つた蛇《へび》に見《み》えた……
二十九
はて、面白《おもしろ》い。あれが天井《てんじやう》を伝《つた》ふ朽縄《くちなは》なら、其《そ》の下《した》に、しよんぼりと立《た》つた柱《はしら》は、直《す》ぐにお浦《うら》の姿《すがた》に成《な》る……取《と》つて像《ざう》を刻《きざ》む材料《ざいりやう》に遣《つか》うと為《し》やう。鋸《のこぎり》で挽《ひ》いて、女《をんな》の立像《りつざう》だけ抜《ぬ》いて取《と》る、と鳥居《とりゐ》は、片仮名《かたかな》のヰの字《じ》に成《な》つて、祠《ほこら》の前《まへ》に、森《もり》の出口《でぐち》から、田甫《たんぼ》、畷《なはて》、山《やま》を覗《のぞ》いて立《た》つであらう。
と凝《じつ》と視《なが》める、と最《も》う其《そ》の鳥居《とりゐ》の柱《はしら》の中《なか》へ、婦《をんな》の姿《すがた》が透《す》いて映《うつ》る……木目《もくめ》が水《みづ》のやうに膚《はだ》に絡《まと》ふて。
『旦那様《だんなさま》、お荷物《にもつ》な持《も》つて参《めえ》りやした、まあ、暗《くれ》え処《とこ》に何《なに》を為《し》てござらつしやる。』
成程《なるほど》、狐格子《きつねがうし》に釣《つ》つて置《お》いた提灯《ちやうちん》は何時《いつ》までも蝋燭《らふさく》が消《た》たずには居《を》らぬ。……気《き》が着《つ》くと板椽《いたえん》に腰《こし》を落《おと》し、段《だん》に脚《あし》を投《な》げてぐつたりして居《ゐ》た。
鞄《かばん》を脊負《しよ》つて来《き》たのは木樵《きこり》の権七《ごんしち》で、此《こ》の男《をとこ》は、お浦《うら》を見失《みうしな》つた当時《たうじ》、うか/\城趾《しろあと》へ※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]《さまよ》つたのを宿《やど》へ連《つれ》られてから、一寸々々《ちよい/\》出《で》て来《き》ては記憶《きおく》の裡《うち》へ影《かげ》を露《あら》はす。此《これ》と、城《じやう》ヶ|沼《ぬま》の黒坊主《くろばうず》の蒼《あを》ざめた面影《おもかげ》を除《のぞ》いては、誰《たれ》の顔《かほ》も判然《はつきり》覚《おぼ》えて居《ゐ》なかつた。
『燈明《とうみやう》を点《つ》けさつしやりませ。洋燈《らんぷ》では旦那様《だんなさま》の身躰《からだ》危《あぶな》いと言《い》ふで、種油《たねあぶら》提《さ》げて、燈心《とうしん》土器《かはらけ》を用意《ようい》して参《めえ》りやしたよ。追附《おつつ》け、寝道具《ねだうぐ》も運《はこ》ぶでがすで。気《き》を静《しづ》めて休《やす》まつしやりませ。……私等《わしら》も又《また》、油断《ゆだん》なく奥様《おくさま》の行衛《ゆくゑ》な捜《さが》しますだで、えら、心《こゝろ》を狂《くる》はさつしやりますな。』
と言《い》ふ/\燈心《とうしん》を点《とも》して、板敷《いたじき》の上《うへ》へ薄縁《うす
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