な》、土地祇《とちのかみ》、……実《まこと》に雪枝《ゆきえ》が製作《せいさく》の美人《びじん》を求《もと》めば、礼《れい》を厚《あつ》くして来《きた》り請《こ》はずや。もし其《そ》の代価《だいか》に苦《くるし》むとならば、玉《たま》を捧《さゝ》げよ、能《あた》はずんば鉱石《くわうせき》を捧《さゝ》げよ、能《あた》はずんば巌《いはほ》を欠《か》いて来《きた》り捧《さゝ》げよ。一枝《ひとえだ》の桂《かつら》を折《を》れ、一輪《いちりん》の花《はな》を摘《つ》め。奚《なん》ぞみだりに妻《つま》に仇《あだ》して、我《われ》をして避《さ》くるに処《ところ》なく、辞《じ》するに其《そ》の術《すべ》なからしむる。……汝等《なんじら》、此処《こゝ》に、立処《たちどころ》に作品《さくひん》の影《かげ》の顕《あら》はれたる此《こ》の幻《まぼろし》の姿《すがた》に対《たい》して、其《そ》の礼《れい》無《な》きを恥《は》ぢざるや……
と背後《うしろ》から視《なが》めて意気《いき》昂《あが》つて、腕《うで》を拱《こまぬ》いて、虚空《こくう》を睨《にら》んだ。腰《こし》には、暗夜《あんや》を切《き》つて、直《たゞ》ちに木像《もくざう》の美女《たをやめ》とすべき、一口《ひとふり》の宝刀《ほうたう》を佩《お》びたる如《ごと》く、其《そ》の威力《ゐりよく》に脚《あし》を踏《ふ》んで、胸《むね》を反《そ》らした。
「本気《ほんき》の沙汰《さた》ではない、世《よ》にあるまじき呵責《かしやく》の苦痛《くつう》を受《う》けて居《ゐ》る、女房《にようばう》の音信《おとづれ》を聞《き》いて、赫《くわつ》と成《な》つて気《き》が違《ちが》つたんです。」
我《われ》と我《わ》が想像《さうざう》に酔《よ》つて、見惚《みと》れた玉《たま》の膚《はだえ》の背《せなか》を透《とほ》して、坊主《ばうず》の黒《くろ》い法衣《ころも》が映《うつ》る、と水《みづ》の中《なか》に天守《てんしゆ》の梁《うつばり》に釣下《つりさ》げられた、其《そ》の姿《すがた》を獣《けもの》の襲《おそ》ふ、其《そ》の俤《おもかげ》を歴然《あり/\》と見《み》た。無惨《むざん》の状《さま》に、ふつと掻消《かきけ》した如《ごと》く美《うるは》しいものは消《き》えた。
『呼《よ》ぶわ、呼《よ》ぶわ。』
と云《い》つた坊主《ばうず》の声《こゑ》。
『おゝい/\、』
『お客様《きやくさま》、お客様《きやくさま》。』
と叫《さけ》ぶのが、遥《はるか》に、弱《よわ》い稲妻《いなづま》のやうに夜中《よなか》を走《はし》つて、提灯《ちやうちん》の灯《ひ》が点々《ぽつ/\》畷《なはて》に※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]《さまよ》ふ。
『お客様《きやくさま》。』
『旦那《だんな》、』
『奥方様《おくがたさま》。』
あゝ、又《また》奥方様《おくがたさま》をくはせる……剰《あまつさ》へ、今《いま》心着《こゝろづ》いて、耳《みゝ》を澄《す》ませて聞《き》けば、我《われ》自《みづ》からも、此《こ》の頃《ごろ》では鉦太鼓《かねたいこ》こそ鳴《な》らさぬけれども、土俗《どぞく》に今《いま》も遣《や》る……天狗《てんぐ》に攫《さら》はれたものを探《さが》す方法《しかた》で、あの通《とほ》り呼立《よびた》て居《を》る――成程《なるほど》然《さ》う思《おも》へば、何時《いつ》温泉《をんせん》の宿《やど》を出《で》て、何処《どこ》を通《とほ》つて、城《じやう》ヶ|沼《ぬま》に来《き》たか覚《おぼ》えて居《を》らぬ。
『御身《おみ》を呼《よ》ぶぢやろ、去《い》なつしやい。』と坊主《ばうず》が、はつと又《また》其《そ》の掌《てのひら》を拡《ひろ》げた。此《こ》の煽動《あふり》に横顔《よこがほ》を払《はら》はれたやうに思《おも》つて、蹌踉《よろ/\》としたが、惟《おも》ふに幻覚《げんかく》から覚《さ》めた疲労《ひろう》であらう、坊主《ばうず》が故意《こい》に然《さ》うしたものでは無《な》いらしい。
『御身《おみ》が内儀《ないぎ》の言《こと》づけを忘《わす》れまいな。』
『忘《わす》れない。』
と奮然《ふんぜん》として答《こた》へた。既《すで》に鬼神《きじん》に感応《かんおう》ある、芸術家《げいじゆつか》に対《たい》して、坊主《ばうず》の言語《げんご》と挙動《きよどう》は、何《なん》となく嘗《な》め過《す》ぎたやうに思《おも》はれたから……其《そ》のまゝ肩《かた》を聳《そび》やかして、三《み》つ四《よ》つ輝《かゞや》く星《ほし》を取《と》つて、直《たゞ》ちに額《ひたひ》を飾《かざ》る意気組《いきぐみ》。背《せ》を高《たか》く、足《あし》を踏《ふ》んで、沼《ぬま》の岸《きし》を離《はな》れると、足代《あじろ》に突立《つゝた》つて見送《みおく》つた坊主《ばうず》の影《かげ》は、背後《うしろ》から蔽覆《おつかぶ》さる如《ごと》く、大《おほひ》なる形《かたち》に成《な》つて見《み》えた。
二十七
温泉《いでゆ》の宿《やど》を差《さ》して、城《じやう》ヶ|沼《ぬま》から引返《ひきかへ》す途中《とちゆう》は、気《き》も漫《そゞろ》に、直《す》ぐにも初《はじ》むべき――否《いな》、手《て》は既《すで》に何等《なにら》か其《それ》に向《むか》つて働《はたら》く……新《あらた》な事業《じげふ》に対《たい》する感興《かんきよう》の雲《くも》に乗《の》るやう、腕《かひな》が翼《はね》に成《な》つて、星《ほし》の下《した》を飛《と》ぶが如《ごと》き心地《こゝち》した。
恁《か》うまで情《じやう》の昂《たか》ぶつた処《ところ》へ、はたと宿《やど》から捜《さが》しに出《で》た一行《いつかう》七八人《しちはちにん》の同勢《どうぜい》に出逢《であ》つたのである……定紋《じやうもん》の着《つ》いた提灯《ちやうちん》が一群《いちぐん》の中《なか》に三《み》ツばかり、念仏講《ねんぶつかう》の崩《くづ》れとも見《み》えれば、尋常《じんじやう》遠出《とほで》の宿引《やどひき》とも見《み》えるが、旅籠屋《はたごや》に取《と》つては実際《じつさい》容易《ようい》な事《こと》では無《な》からう、――仮初《かりそめ》に宿《やど》つた夫婦《ふうふ》が、婦《をんな》は生死《しやうし》も行衛《ゆくゑ》も知《し》れず、男《をとこ》は其《それ》が為《ため》に、殆《ほと》んど狂乱《きやうらん》の形《かたち》で、夜昼《ひるよる》とも無《な》しに迷《まよ》ひ歩行《ある》く……
不面目《ふめんもく》ゆゑ、国許《くにもと》へ通知《つうち》は無用《むよう》、と当人《たうにん》は堅《かた》く留《と》めたものゝ、唯《はい》、然《さ》やうで、とばかりで旅籠屋《はたごや》では済《す》まして居《ゐ》られぬ。
で、宿《やど》の了見《れうけん》ばかりで電報《でんぱう》を打《う》つた、と見《み》えて其処《そこ》で出逢《であ》つた一群《いちぐん》の内《うち》には、お浦《うら》の親類《しんるゐ》が二人《ふたり》も交《まざ》つた、……此《こ》の中《なか》に居《ゐ》ない巡査《じゆんさ》などは、同《おな》じ目的《もくてき》で、別《べつ》の方面《はうめん》に向《むか》つて居《ゐ》るらしい。
畝路《あぜみち》で出合《であひ》がしらに、一同《いちどう》は騒《さわ》ぎ立《た》てた。就中《なかんづく》、わざ/\東京《とうきやう》から出張《でば》つて来《き》た親類《しんるゐ》のものは、或《あるひ》は慰《なぐさ》め、或《あるひ》は励《はげ》まし、又《また》戒《いまし》めなどする種々《いろ/\》の言葉《ことば》を、立続《たてつゞ》けに※[#「口+堯」、135−15]舌《しやべ》つたが、頭《あたま》から耳《みゝ》にも入《い》れず……暗闇《くらやみ》の路次《ろじ》へ入《はい》つて、ハタと板塀《いたべい》に突当《つきあた》つたやうに、棒立《ぼうだ》ちに成《な》つて居《ゐ》たが、唐突《だしぬけ》に、片手《かたて》の掌《てのひら》を開《あ》けて、ぬい、と渠等《かれら》の前《まへ》へ突出《つきだ》した。坊主《ばうず》が自分《じぶん》に向《むか》つて同《おな》じ事《こと》を為《し》たのを、フト思出《おもひだ》したのが、殆《ほと》んど無意識《むいしき》に挙動《ふるまひ》に出《で》た。ト尠《すくな》からず一同《いちどう》を驚《おどろ》かして、皆《みな》だぢ/\と成《な》つて退《すさ》る。
ト此《こ》の鑿《のみ》を持《も》ち、鏨《たがね》を持《も》つべき腕《かひな》は、一度《ひとたび》掌《てのひら》を返《かへ》して、多勢《たせい》を圧《あつ》して将棊倒《しやうぎだふ》しにもする、大《おほい》なる権威《けんゐ》の備《そな》はるが如《ごと》くに思《おも》つて、会心《くわいしん》自得《じとく》の意《こゝろ》を、高声《たかごゑ》に漏《も》らして、呵々《から/\》と笑《わら》つた。
『御苦労《ごくらう》御苦労《ごくらう》、真《まこと》に御骨折《ごほねをり》を懸《か》けて誰方《どなた》にも相済《あひす》まん。が、最《も》う御心配《ごしんぱい》には及《およ》ばんのだ。――お聞《き》きなさい、行衛《ゆくゑ》の知《し》れなかつた家内《かない》は、唯今《たゞいま》其《そ》の所在《ありか》が分《わか》つた。……ナニ、無事《ぶじ》か? 無事《ぶじ》かではない。考《かんが》えて見《み》たつて知《し》れます。繊弱《かよわ》い婦《をんな》だ、然《しか》も蒲柳《ほりう》の質《しつ》です。一寸《ちよいと》躓《つまづ》いても怪我《けが》をするのに、方角《はうがく》の知《し》れない山《やま》の中《なか》で、掻消《かきけ》すやうに隠《かく》れたものが無事《ぶじ》で居《ゐ》やう筈《はづ》はないではないか。
決《けつ》して安泰《あんたい》ではない。正《まさ》に其《そ》の爪《つめ》を剥《は》ぎ、血《ち》を絞《しぼ》り、肉《にく》を※[#「てへん+毟」、第3水準2−78−12]《むし》り骨《ほね》を削《けづ》るやうな大苦艱《だいくかん》を受《う》けて居《ゐ》る、倒《さかさま》に釣《つ》られて居《ゐ》る。…………………』
と戦《おのゝ》いたが、すぐ肩《かた》を聳《そびや》かした。
『何処《どこ》に居《ゐ》る? 何《なに》、お浦《うら》の所在《ありか》は何処《どこ》だ、と言《い》ふのか。いや、君方《きみがた》に、其《それ》は話《はな》しても分《わか》るまい。水《みづ》の底《そこ》のやうな、樹《き》の梢《こずゑ》のやうな、雲《くも》の中《なか》のやうな、……それぢや分《わか》らん、分《わか》らない、と言《い》ふのかね、勿論《もちろん》分《わか》りませんとも!
吾輩《わがはい》には丁《ちやん》と分《わか》つて居《ゐ》る。位置《ゐち》も方角《はうがく》も残《のこ》らず知《し》つてる、――指《ゆびさ》して言《い》へば、土地《とち》のものは残《のこ》らず知《し》つてる。けれども其《それ》を話《はな》すとなると、それ行《ゆ》け、救《すく》へで、松明《たいまつ》を振《ふ》り、鯨波《とき》の声《こゑ》を揚《あ》げて騒《さわ》ぐ、騒《さわ》いだ処《ところ》で所詮《しよせん》駄目《だめ》です。
誰《たれ》が行《い》つても何者《なにもの》が騒《さわ》いでも、迚《とて》も彼《かれ》は救《すく》ひ出《だ》せない。
おゝ! 君達《きみたち》にも粗《ほゞ》想像《さうざう》出来《でき》るか、お浦《うら》は魔《ま》に攫《さら》はれた、天狗《てんぐ》が掴《つか》んだ、……恐《おそ》らく然《さ》うだらう。……が、私《わたし》は此《これ》を地祇神《とちのかみ》の所業《しよげふ》と惟《おも》ふ。たゞし、鬼《おに》にしろ、神《かみ》にしろ、天狗《てんぐ》にしろ、何《なに》のためにお浦《うら》を攫《さら》つたか、其《そ》の意味《いみ》が分《わか》るまい、諸君《しよくん》には知《し》れなからう。
独《ひと》りこれを知《し》るものは吾輩《わがはい》だよ。而《そ》して此
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