然《さ》うかと思《おも》ふと、膝《ひざ》のあたりを、のそ/\と山猫《やまねこ》が這《は》つて通《とほ》る。階子《はしご》の下《した》から上《あが》つて来《く》るらしく、海豚《いるか》が躍《をど》るやうな影法師《かげぼふし》は狐《きつね》で。ひよいと飛上《とびあが》るのもあれば、ぐる/\と歩行《ある》き廻《まは》るのもあるし、胴《どう》を伸《の》ばして矢間《やざま》から衝《つ》と出《で》て、天守《てんしゆ》の棟《むね》で鯱立《しやちほこだ》ちに成《な》るのも見《み》える。
 時々《とき/″\》ひら/\と烏《からす》が出《で》て、翼《つばさ》で、女《をんな》の胸《むね》を払《はた》く……
 中《なか》に見《み》る目《め》も恐《おそろ》しかつたは、――茶《ちや》と白大斑《しろおほまだら》の獣《けもの》が一頭《いつとう》、天守《てんしゆ》の階子《はしご》を、のし/\と、蹄《ひづめ》で蹈《ふ》んで上《あが》つて、畳《たゝみ》を抱《だ》いて人《ひと》のやうに立上《たちあが》つた影法師《かげぼふし》が、女《をんな》の上《うへ》を横《よこ》に通《とほ》ると、姿《すがた》は隠《かく》れて、颯《さつ》と蒼《あを》く成《な》つた面影《おもかげ》と、ちらりと白《しろ》い爪尖《つまさき》ばかりの残《のこ》つた時《とき》で――獣《けもの》が頓《やが》て消《き》えたと思《おも》ふと、胸《むね》を映《うつ》した影《かげ》が波立《なみだ》ち、髪《かみ》を宿《やど》した水《みづ》が動《うご》いた……
『御身《おみ》が女房《にようばう》の光景《ありさま》ぢや。』と坊主《ばうず》が私《わたし》の顔《かほ》の前《まへ》へ、何故《なぜ》か大《おほき》な掌《てのひら》を開《ひら》けて出《だ》した。」


       誂《あつら》へ物《もの》


         二十五

「私《わたし》は息《いき》を引《ひ》いて退《すさ》つたんです。」と雪枝《ゆきえ》は尚《な》ほ語《かた》り続《つゞ》けた。
「……水《みづ》の中《なか》からともなく、空《そら》からともなく、幽《かすか》に細々《ほそ/″\》とした消《き》えるやうな、少《わか》い女《をんな》の声《こゑ》で、出家《しゆつけ》を呼《よ》んだ、と言《い》ひます。
 而《そ》して、百年《ひやくねん》以来《いらい》、天守《てんしゆ》に棲《す》む或《ある》怪《あやし》いものゝ手《て》を攫《さら》はれて、今《いま》見《み》らるゝ通《とほ》りの苦艱《くげん》を受《う》ける……何《なに》とぞ此《こ》の趣《おもむき》を、温泉《をんせん》に今《いま》も逗留《とうりう》する夫《をつと》に伝《つた》へて、寸時《すんじ》も早《はや》く人間界《にんげんかい》に助《たす》けられたい。救《すく》ふには、天守《てんしゆ》の主人《あるじ》が満足《まんぞく》する、自分《じぶん》の身代《みがは》りに成《な》るほどな、木彫《きぼり》の像《ざう》を、夫《をつと》の手《て》で刻《きざ》んで償《つくな》ふ事《こと》で。其《そ》の他《ほか》に助《たす》かる術《すべ》はない……とあつた。
『都《みやこ》の人《ひと》、唯《たゞ》私《わし》が口《くち》から言《い》ふたでは、余《あまり》の事《こと》に真《まこと》とされまい。……あはれな犠牲《いけにえ》の婦人《をんな》も、唯《たゞ》恁《か》う申《まを》したばかりでは、夫《をつと》も心《こゝろ》に疑《うたが》ひませう……今《いま》其《そ》の印《しるし》を、と言《い》ふてな、色《いろ》は褪《あ》せたが、可愛《かあい》い唇《くちびる》を動《うご》かすと、白歯《しらは》に啣《くは》えたものがある。白魚《しらうを》の目《め》のやうな黒《くろ》い点々《ぽち/\》が一《ひと》つ見《み》えた……口《くち》からは不躾《ぶしつけ》ながら、見《み》らるゝ通《とほ》り縛《いまし》めの後手《うしろで》なれば、指《ゆび》さへ随意《まゝ》には動《うご》かされず……あゝ、苦《くる》しい。と総身《そうしん》を震《ふる》はして、小《ちひ》さな口《くち》を切《せつ》なさうに曲《ゆが》めて開《あ》けると、煽《あふ》つ水《みづ》に掻乱《かきみだ》されて影《かげ》が消《き》えた。戞然《かちり》と音《おと》して足代《あじろ》の上《うへ》へ、大空《おほぞら》からハタと落《お》ちて来《き》たものがある……手《て》に取《と》ると霰《あられ》のやうに冷《つめ》たかつたが、消《き》えも解《と》けもしないで、破《やぶ》れ法衣《ごろも》の袖《そで》に残《のこ》つた。
『印《しるし》はこれぢや。』
と私《わたし》の掌《てのひら》を開《あ》けさせて、ころりと振《ふ》つて乗《の》せたのは、忘《わす》れもしない、双六谷《すごろくだに》で、夫婦《ふうふ》が未来《みらい》の有無《ありなし》を賭《かけ》為《し》やうと思《おも》つて買《か》つた采《さい》だつたんです。
『都《みやこ》の人《ひと》、』
と坊主《ばうず》は又《また》更《あらた》めて、
『御身《おんみ》は木彫《きぼり》を行《や》るかな。』
『行《や》ります!』
と答《こた》へた時《とき》、私《わたし》は蘇生《よみがへ》つたやうに思《おも》つた。水《みづ》も白《しろ》く夜《よ》も明《あかる》く成《な》つた……お浦《うら》の行方《ゆくへ》も知《し》れ、其《そ》の在所《ありか》も分《わか》り、草鞋《わらぢ》や松明《たいまつ》で探《さぐ》つた処《ところ》で、所詮《しよせん》無駄《むだ》だと断念《あきらめ》も着《つ》く……其《それ》に、魔物《まもの》の手《て》から女房《にようばう》を取返《とりかへ》す手段《しゆだん》も出来《でき》た。我《わ》が手《て》に身代《みがはり》の像《ざう》を作《つく》れと云《い》ふ。敢《あへ》て黄金《こがね》を積《つ》め、山《やま》を崩《くづ》せ、と命《めい》ずるのでは無《な》いから、前途《ぜんと》に光明《くわうめい》が輝《かゞや》いて、心《こゝろ》は早《は》や明《あきら》かに渠《かれ》を救《すく》ふ途《みち》の第一歩《だいいつぽ》を辿《たど》り得《え》た。
 草《くさ》を開《ひら》いて、天守《てんしゆ》に昇《のぼ》る路《みち》も一筋《ひとすぢ》、城《じやう》ヶ|沼《ぬま》の水《みづ》を灌《そゝ》いで、野山《のやま》をかけて流《なが》すやうに足許《あしもと》から動《うご》いて見《み》える。
 我《わ》が妻《つま》、聞《き》くが如《ごと》くんば、御身《おんみ》は肉《にく》を裂《さ》かれ、我《われ》は腸《はらわた》を断《た》つ。相較《あひくら》べて劣《おと》りはせじ。堪《こら》へよ、暫時《しばし》、製作《せいさく》に骨《ほね》を削《けづ》り、血《ち》を灌《そゝ》いで、…其《そ》の苦痛《くつう》を償《つくな》はう、と城《じやう》ヶ|沼《ぬま》に対《たい》して、瞑目《めいもく》し、振返《ふりかへ》つて、天守《てんしゆ》の空《そら》に高《たか》く両手《りやうて》を翳《かざ》して誓《ちか》つた。
 其《そ》の時《とき》、お浦《うら》が唇《くちびる》を開《ひら》いて、僧《そう》の手《て》に落《おと》したと云《い》ふ、猪《ゐのしゝ》の牙《きば》の采《さい》を自分《じぶん》の口《くち》に含《ふく》んで居《ゐ》た。が、同《おな》じ舌《した》の尖《さき》に触《ふ》れた、と思《おも》ふと血《ち》を絞《しぼ》つて湧《わ》き出《い》づる火《ひ》のやうな涙《なみだ》とゝもに、ほろり、と采《さい》が手《て》に落《お》ちた。其《そ》の掌《たなごゝろ》を忘《わす》るゝばかり心《こゝろ》を詰《つ》めて握占《にぎりし》めた時《とき》、花《はな》の輪《わ》が渦《うづま》くやうに製作《せいさく》の興《きよう》が湧《わ》いた。――閉《と》づる、又《また》開《ひら》く、扇《あふぎ》の要《かなめ》を思着《おもひつ》いた、骨《ほね》あれば筋《すぢ》あれば、手《て》も動《うご》かう、足《あし》も伸《の》びやう……風《かぜ》ある如《ごと》く言《ものい》はう…と早《は》や我《わ》が作《つく》る木彫《きぼり》の像《ざう》は、活《い》きて動《うご》いて、我《わ》が身《み》ながらも頼母《たのも》しい。さて其《そ》の要《かなめ》は、……手《て》に握《にぎ》つた采《さい》であつた。
 天《てん》が命《めい》じて、我《われ》をして為《な》さしむる、我《わ》が作《な》す美女《たをやめ》の立像《りつざう》は、其《そ》の掌《てのひら》に采《さい》を包《つゝ》んで、作《さく》の神秘《しんぴ》を胸《むね》に籠《こ》めやう。言《い》ふまでも無《な》く、其《そ》の面影《おもかげ》、其《そ》の姿《すがた》は、古城《こじやう》の天守《てんしゆ》の囚《とりこ》と成《な》つた、最惜《いとをし》い妻《つま》を其《そ》のまゝ、と豁然《くわつぜん》として悟《さと》ると同時《どうじ》に、腕《うで》には斧《をの》を取《と》る力《ちから》が籠《こも》つて、指《ゆび》と指《ゆび》とは鑿《のみ》を持《も》たうとして自然《ひとり》で動《うご》く――時《とき》なる哉《かな》、作《さく》の頭《こうべ》に飾《かざ》るが如《ごと》く、雲《くも》を破《やぶ》つて、晃々《きら/\》と星《ほし》が映《うつ》つた。
 星《ほし》の下《した》を飛《と》んで帰《かへ》つて、温泉《いでゆ》の宿《やど》で、早《は》や準備《じゆんび》を、と足《あし》が浮《う》く、と最《も》う遠《とほ》く離《はな》れた谿河《たにがは》の流《ながれ》が、砥石《といし》を洗《あら》ふ響《ひゞき》を伝《つた》へる。

         二十六

 然《さ》うすると、心《こゝろ》に刻《きざ》んで、想像《さうざう》に製《つく》り上《あ》げた……城《しろ》の俘虜《とりこ》を模型《もけい》と為《し》た彫像《てうざう》が、一団《いちだん》の雪《ゆき》の如《ごと》く、沼縁《ぬまべり》にすらりと立《た》つ。手《て》を伸《の》べよ、と思《おも》へば伸《の》べ、乳《ちゝ》を蔽《おほ》へと思《おも》へば蔽《おほ》ひ、髪《かみ》を乱《みだ》せと思《おも》へば乱《みだ》れ、結《むす》べよ、と思《おも》へば結《むす》ばる――さて、衣《きぬ》を着《き》せやうと思《おも》へば着《き》る。
 作《さく》の出来栄《できばえ》を予想《よさう》して、放《はな》つ薫《かほり》、閃《ひら》めく光《ひかり》の如《ごと》く眼前《がんぜん》に露《あら》はれた此《こ》の彫像《てうざう》の幻影《げんえい》は、悪魔《あくま》が手《て》に、帯《おび》を奪《うば》はうとして、成《な》らず、衣《きぬ》を解《と》かうとして、得《え》ず、縛《いまし》められても悩《なや》まず、鞭《むちう》つても痛《いた》まず、恐《おそ》らく火《ひ》にも焼《や》けず、水《みづ》にも溺《おぼ》れまい。
 見《み》よ/\、同《おな》じ幻《まぼろし》ながら、此《こ》の影《かげ》は出家《しゆつけ》の口《くち》より伝《つた》へられたやうな、倒《さかさま》に梁《うつばり》に釣《つる》される、繊弱《かよは》い可哀《あはれ》なものでは無《な》い。真直《まつすぐ》に、正《たゞ》しく、美《うるは》しく立《た》つ。あゝ、玉《たま》の如《ごと》き肩《かた》に、柳《やなぎ》の如《ごと》き黒髪《くろかみ》よ、白百合《しろゆり》の如《ごと》き胸《むね》よ、と恍惚《くわうこつ》と我《われ》を忘《わす》れて、偉大《ゐだい》なる力《ちから》は、我《わ》が手《て》に作《つく》らるべき此《こ》の佳作《かさく》を得《え》むが為《た》め、良匠《りようしやう》の精力《せいりよく》をして短《みじか》き時間《じかん》に尽《つく》さしむべく、然《しか》も其《そ》の労力《らうりよく》に仕払《しはら》ふべき、報酬《はうしう》の量《りやう》の莫大《ばくだい》なるに苦《くるし》んで、生命《いのち》にも代《か》へて最惜《いとをし》む恋人《こひびと》を仮《かり》に奪《うば》ふて、交換《かうくわん》すべき条件《でうけん》に充《あ》つる人質《ひとじち》と為《し》たに相違《さうゐ》ない。
 卑怯《ひけう》なる哉《か
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