》へ姿《すがた》を顕《あら》はす幻《まぼろし》の婦《をんな》に廻向《えかう》を、と頼《たの》まれて、出家《しゆつけ》の役《やく》ぢや、……宵《よひ》から念仏《ねんぶつ》を唱《とな》へて待《ま》つ、と時刻《じこく》が来《き》た。
 大沼《おほぬま》の水《みづ》は唯《たゞ》、風《かぜ》にも成《な》らず雨《あめ》にも成《な》らぬ、灰色《はいいろ》の雲《くも》の倒《たふ》れた広《ひろ》い亡体《なきがら》のやうに見《み》えたのが、汀《みぎは》からはじめて、ひた/\と呼吸《いき》をし出《だ》した。ひた/\と言《い》ひ出《だ》した。幽《かすか》にひた/\と鳴出《なりだ》した。
 町方《まちかた》、里近《さとちか》の川《かは》は、真夜中《まよなか》に成《な》ると流《ながれ》の音《おと》が留《や》むと言《い》ふが反対《あべこべ》ぢやな。此《こ》の沼《ぬま》は、其時分《そのじぶん》から動《うご》き出《だ》す……呼吸《いき》が全躰《ぜんたい》に通《かよ》ふたら、真中《まんなか》から、むつくと起《お》きて、どつと洪水《こうずゐ》に成《な》りはせぬかと思《おも》ふ物凄《ものすご》さぢや。
 と其《そ》の中《なか》に何《なに》やら声《こゑ》がする。』……と坊主《ばうず》が言《い》ひます。」

         二十三

 其《そ》の声《こゑ》が、五位鷺《ごゐさぎ》の、げつく、げつくとも聞《き》こえれば、狐《きつね》の叫《さけ》ぶやうでもあるし、鼬《いたち》がキチ/\と歯《は》ぎしりする、勘走《かんばし》つたのも交《まざ》つた。然《さ》うかと思《おも》ふと、遠《とほ》い国《くに》から鐘《かね》の音《ね》が響《ひゞ》いて来《く》るか、とも聞取《きゝと》られて、何《なん》となく其処等《そこら》ががや/\し出《だ》す……雑多《ざつた》な声《こゑ》を袋《ふくろ》に入《い》れて、虚空《こくう》から沼《ぬま》の上《うへ》へ、口《くち》を弛《ゆる》めて、わや/\と打撒《ぶちま》けたやうに思《おも》ふと、
『血《ち》を洗《あら》へ、』
『洗《あら》へ』
『人間《にんげん》の血《ち》を洗《あら》へ。』
『笘《しもと》で破《やぶ》つた。』
『鞭《むち》で切《き》つた。』
『爪《つめ》で裂《さ》いた。』
『膚《はだ》を浄《きよ》めろ、』
『浄《きよ》めろ。』
と高《たか》く低《ひく》く、声々《こゑ/″\》に大沼《おほぬま》のひた/\と鳴《な》るのが交《まざ》つて、暗夜《あんや》を刻《きざ》んで響《ひゞ》いたが、雲《くも》から下《お》りたか、水《みづ》から湧《わ》いたか、沼《ぬま》の真中《まんなか》あたりへ薄《うす》い煙《けむり》が朦朧《もうろう》と靡《なび》いて立《た》つ……
『煮殺《にころ》すではないぞ。』
『うでるでない。』と言《い》ふ。
『湯加減《ゆかげん》、湯加減《ゆかげん》、』
『水加減《みづかげん》。』と喚《わめ》いた……
『沼《ぬま》の湯《ゆ》は熱《あつ》いか。』とぼやけた音《おん》で聞《き》くのがある……
『熱湯《ねつたう》。』と簡単《かんたん》に答《こた》へた。
『人間《にんげん》は知《し》るまいな。』
『知《し》るものか。』と傲然《がうぜん》とした調子《てうし》で言《い》つた。
『沼《ぬま》から何《なん》で沸湯《にえゆ》が出《で》る。』
『此《こ》の湯《ゆ》が沸《わ》いて殺《ころ》さぬと、魚《うを》が殖《ふ》へて水《みづ》が無《な》くなる、沼《ぬま》が乾《かは》くわ。』
と言《い》つた。
『※[#「口+堯」、125−7]舌《しやべ》るな、働《はたら》け。』
『血《ち》を洗《あら》へ、』
『傷《きづ》を洗《あら》へ』
『小袖《こそで》を剥《は》がせ』
『此《こ》の紫《むらさき》は?』
『菖蒲《あやめ》よ、藤《ふぢ》よ。』
『帯《おび》が長《なが》いぞ。』
『蔦《つた》、桂《かつら》、山鳥《やまどり》の尾《を》よ。』
『下着《したぎ》も奪《うば》へ、』
『此《こ》の紅《くれなゐ》は、』
『もみぢ、花《はな》。』
『やあ、此《こ》の膚《はだえ》は、』
『山陰《やまかげ》の雪《ゆき》だ。』
 ひいツ、と魂消《たまぎ》つて悲鳴《ひめい》を上《あ》げた、糸《いと》のやうな女《をんな》の声《こゑ》が谺《こだま》を返《かへ》して沼《ぬま》に響《ひゞ》いた。

 坊主《ばうず》が此処《こゝ》まで言《い》つた時《とき》、聞《き》いてた私《わたし》は熱鉄《ねつてつ》のやうな汗《あせ》が流《なが》れた。」
と雪枝《ゆきえ》は老爺《ぢゞい》に語《かた》りながら唇《くちびる》を戦《おのゝ》かせて、
「尚《な》ほ坊主《ばうず》が続《つゞ》けて、話《はな》す。

 さあ何《なに》ものかゞ寄《よ》つて集《たか》つて、誰《たれ》かを白裸《まるはだか》にした、と思《おも》へば、
『犬《いぬ》よ、犬《いぬ》よ。』と呼《よ》んだのがある。
 びやう、びやう、うおゝ、うおゝ、うゝ、と遥《はる》かに犬《いぬ》が長吠《ながぼえ》して、可忌《いまは》しく夜陰《やいん》を貫《つらぬ》いたが、瞬《またゝ》く間《ま》に、里《さと》の方《はう》から、風《かぜ》のやうに颯《さつ》と来《き》て、背後《うしろ》から、足代場《あじろば》の上《うへ》に蹲《うづくま》つた――法衣《ころも》の袖《そで》を掠《かす》めて飛《と》んだ、トタンに腥《なまぐさ》い獣《けもの》の香《にほひ》がした。
 水《みづ》の上《うへ》で、わん、わん、と啼《な》く……
『男《をとこ》は知《し》るまい。』
『うゝ、』と犬《いぬ》の声《こゑ》。
『不便《ふびん》な奴《やつ》だ。』
『びやう、』と又《また》啼《な》いた。
 此《こ》の間《あひだ》、ざぶり/\と水《みづ》を懸《か》ける音《おと》が頻《しきり》にした。
『やがて可《い》いか、』
『血《ち》は留《と》まつた。』
『又《また》鞭打《むちう》つて、』
『又《また》洗《あら》はう。』
『やあ、己《おれ》が手《て》、』
『我《わ》が足《あし》、』
『此《こ》の面《つら》に絡《まつ》はるは。』
『水《みづ》に拡《ひろ》がる黒髪《くろかみ》ぢや、』
『山《やま》の婆々《ばゞ》の白髪《しらが》のやうに、すく/\と痛《いた》うは刺《さ》さぬ。』
『蛇《へび》よりは心地《こゝち》よやな。』と次第《しだい》に声《こゑ》が風《かぜ》に乗《の》り行《ゆ》く……

         二十四

 びやう/\と凄《すご》い声《こゑ》で、形《かたち》は見《み》えず、沼《ぬま》の上《うへ》で空《そら》ざまに犬《いぬ》が啼《な》く。
『犬《いぬ》よ、犬《いぬ》よ。』
『おう。』と吠《ほ》えた。
『人間《にんげん》の目《め》には見《み》えぬ……城山《しろやま》の天守《てんしゆ》の上《うへ》に、女《をんな》は梁《うつばり》から釣《つる》して置《お》く、と男《をとこ》に言《い》へ!』
『何《なに》が、彼《あ》の耳《みゝ》へ入《はい》らう。』
『わん、と啼《な》いたら、犬《いぬ》だと思《おも》はう、彼《あ》の痴漢《たわけ》が。』
と嘲《あざけ》る声《こゑ》。傍《かたはら》から老《ふ》けた声《こゑ》して、
『……其《そ》の言附《ことづけ》は、犬《いぬ》では不可《いか》ぬ。時鳥《ほとゝぎす》に一声《ひとこゑ》啼《な》かせろ。』
『まだ/\、まだ/\、山《やま》の中《なか》の約束《やくそく》は、人間《にんげん》のやうに間違《まちが》はぬ。今《いま》は未《ま》だ時鳥《ほとゝぎす》の啼《な》く時節《じせつ》で無《な》い。』
『唯《たゞ》姿《すがた》だけ見《み》せれば可《い》い。温泉宿《ゆのやど》の二階《にかい》は高《たか》し。あの欄干《らんかん》から飛込《とびこ》ませろ、……女房《にようばう》は帰《かへ》らぬぞ、女房《にようばう》は帰《かへ》らぬぞ、と羽《はね》で天井《てんじやう》をばさばさ遣《や》らせろ。』
『男《をとこ》は、女《をんな》の魂《たましひ》が時鳥《ほとゝぎす》に成《な》つた夢《ゆめ》を見《み》て、白《しろ》い毛布《けつと》で包《つゝ》んで取《と》らうと血眼《ちまなこ》で追駆《おつか》け回《まは》さう……寐惚面《ねぼけづら》見《み》るやうだ。』
 どつと笑《わら》つて、天守《てんしゆ》の方《はう》へ消《き》えた後《あと》は、颯々《さつ/\》と風《かぜ》に成《な》つた。
 が、田畠野《たばたけの》の空《そら》を、山《やま》の端《は》差《さ》して、何《なん》となく暗《やみ》ながら雲《くも》がむくむくと通《とほ》つて行《ゆ》く。其《そ》の気勢《けはひ》が、やがて昼間《ひるま》見《み》た天守《てんしゆ》の棟《むね》の上《うへ》に着《つ》いた程《ほど》に、ドヽンと凄《すご》い音《おと》がして、足代《あじろ》に乗《の》つた目《め》の下《した》、老人《らうじん》が沈《しづ》めて去《い》つた四《よ》つ手網《であみ》の真中《まんなか》あたりへ、したゝかな物《もの》の落《お》ちた音《おと》。水《みづ》が環《わ》に成《な》つて、颯《さつ》と網《あみ》を乗出《のりだ》して展《ひろ》げた中《なか》へ、天守《てんしゆ》の影《かげ》が、壁《かべ》も仄白《ほのじろ》く見《み》えるまで、三重《さんぢう》あたりを樹《き》の梢《こずゑ》に囲《かこ》まれながら、歴然《あり/\》と映《うつ》つて出《で》た。
 不思議《ふしぎ》や、其《そ》の天守《てんしゆ》の壁《かべ》を透《す》いて、中《なか》に灯《ひ》を点《つ》けたやうに、魚《うを》の形《かたち》した黄色《きいろ》い明《あかり》のひら/\するのが、矢間《やざま》の間《あひ》から、深《ふか》い処《ところ》に横開《よこひら》けで、網《あみ》の目《め》が映《うつ》るのか凡《およ》そ五十畳《ごじふでう》ばかりの広間《ひろま》が、水底《みずそこ》から水面《すゐめん》へ、斜《なゝめ》に立懸《たてか》けたやうに成《な》つて、ふわ/\と動《うご》いて見《み》える。
 他《ほか》に何《なに》も無《な》く誰《だれ》も居《を》らぬ。灯《あかり》唯《たゞ》一《ひと》つ有《あ》る。其《そ》の灯《あかり》が、背中《せなか》から淡《あは》く射《さ》して、真白《まつしろ》な乳《ちゝ》の下《した》を透《すか》す、……帯《おび》のあたりが、薄青《うすあを》く水《みづ》に成《な》つて、ゆら/\と流《なが》れるやうな、下《した》が裙《すそ》に成《な》つて、一寸《ちよつと》灯《ひ》の影《かげ》で胴《どう》から切《き》れた形《かたち》で、胸《むね》を反《そ》らした、顔《かほ》を仰向《あふむ》けに、悚然《ぞつ》とするやうな美《うつくし》い婦《をんな》。
 処《ところ》で、水《みづ》へ映《うつ》る影《かげ》と言《い》へば、我《わ》が面影《おもかげ》を覗《のぞ》くやうに、沼《ぬま》に向《むか》つて、顔《かほ》を合《あ》はせるやうに見《み》えるのであらう、と思《おも》ふたが違《ちが》う。――黒髪《くろかみ》が岸《きし》へ、足《あし》が彼方《かなた》へ、たとへば向《むか》ふの汀《みぎは》から影《かげ》が映《さ》すのを、倒《さかさま》に視《なが》める形《かたち》。つく/″\と見《み》れば無残《むざん》や、形《かたち》のない声《こゑ》が言交《いひか》はした如《ごと》く、頭《かしら》が畳《たゝみ》の上《うへ》へ離《はな》れ、裙《すそ》が梁《うつばり》にも留《と》まらずに上《うへ》から倒《さかさま》に釣《つる》して有《あ》る……
 と身《み》を悶《もが》くか水《みづ》が揺《ゆ》れるか、わな/\と姿《すがた》が戦《おのゝ》く――天守《てんしゆ》の影《かげ》の天井《てんじやう》から真黒《まつくろ》な雫《しづく》が落《お》ちて、其《そ》の手足《てあし》に懸《かゝ》つて、其《そ》のまゝ髪《かみ》の毛《け》を伝《つた》ふやうに、長《なが》く成《な》つて、下《した》へぽた/\と落《お》ちて、ずらりと伸《の》びて、廻《まは》りつ畝《うね》りつするのを、魚《うを》の泳《およ》ぐのか、と思《おも》ふと幾条《いくすぢ》かの蛇《へび》で、梁《うつばり》にでも巣《す》をくつて居《ゐ》るらしい
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