毛《しつぽ》だか、網《あみ》の中《なか》の婦《をんな》の姿《すがた》がふら/\動《うご》くだ。はて、変《へん》だと手《て》を離《はな》すと、ざぶりと沈《しづ》むだ。其《そ》の網《あみ》の底《そこ》の方《はう》……水《みづ》ン中《なか》に、ちら/\と顔《かほ》が見《み》える……其《そ》のお前様《めえさま》、白《しろ》い顔《かほ》が正的《まとも》に熟《じつ》と此方《こちら》を見《み》るだよ。
 や、早《は》や其時《そのとき》は畚《びく》が足代《あじろ》を落《おつ》こちて、泥《どろ》の上《うへ》に俯向《うつむ》けだね。其奴《そいつ》が、へい、足《あし》を生《は》やして沼《ぬま》へ駆込《かけこ》まぬが見《み》つけものだで、畜生《ちくしやう》め、此《こ》の術《て》で今夜《こんや》は占《し》めをつた。
 何《なん》のつけ、最《も》う二度《にど》と来《く》る事《こと》ではない、とふつ/\我《が》を折《を》つて帰《かへ》りましけえ。怪※[#「りっしんべん+牙」、119−16]《をかし》な事《こと》には、眉《まゆ》が何《ど》う、目《め》が何《ど》う、と云《い》ふ覚《おぼえ》はねえだが、何《なん》とも言《い》はれねえ、其《そ》の女《をんな》の容色《きりやう》だで……色《いろ》も恋《こひ》も無《な》けれども、絵《ゑ》を見《み》るやうで、何《なん》とも其《そ》の、美《うつく》しさが忘《わす》れられぬ。
 化《ば》けたなら化《ば》けたで可《よし》、今夜《こんや》は蛇《じや》に成《な》らうも知《し》んねえが、最《も》う一晩《ひとばん》出懸《でか》けて見《み》べい。」……
 で、又《また》てく/\と沼《ぬま》へ出向《でむ》く、と一刷《ひとは》け刷《は》いた霞《かすみ》の上《うへ》へ、遠山《とほやま》の峰《みね》より高《たか》く引揚《ひきあ》げた、四手《よつで》を解《と》いて沈《しづ》めたが、何《ど》の道《みち》持《も》つては帰《かへ》られぬ獲物《えもの》なれば、断念《あきら》めて、鯉《こひ》が黄金《きん》で鮒《ふな》が銀《ぎん》でも、一向《いつかう》に気《き》に留《と》めず、水《みづ》に任《まか》せて夜《よ》を更《ふか》す。
 風《かぜ》が吹《ふ》き、風《かぜ》が凪《な》ぎ、水《みづ》が動《うご》き、水《みづ》が静《しづ》まる。大沼《おほぬま》の刻限《こくげん》も、村里《むらざと》と変《かは》り無《な》う、やがて丑満《うしみつ》と思《おも》ふ、昨夜《ゆふべ》の頃《ころ》、ソレ此処《こゝ》で、と網《あみ》を取《と》つたが、其《そ》の晩《ばん》は上《うへ》へ引揚《ひきあ》げる迄《まで》もなく、足代《あじろ》の上《うへ》から水《みづ》を覗《のぞ》くと歴然《あり/\》と又《また》顔《かほ》が映《うつ》つた。
 と老爺《ぢゞい》が話《はな》す。
「聞《き》かつせえまし、肩《かた》から胸《むね》の辺《あたり》まで、薄《うつす》らと見《み》えるだね、試《ため》して見《み》ろで、やつと引《ひ》き揚《あ》げると、矢張《やつぱ》り網《あみ》に懸《かゝ》つて水《みづ》を離《はな》れる……今度《こんど》は、ヤケにゆつさゆさ引振《ひつぷる》ふと、揉消《もみけ》すやうにすツと消《き》えるだ――其処《そこ》でざぶんと沈《しづ》める、と又《また》水《みづ》の中《なか》へ露《あら》はれる。……
 三夜《みよさ》四夜《よよさ》と続《つゞ》いたが、何時《いつ》も其《そ》の時刻《じこく》に屹《きつ》と映《うつ》るだ。追々《おひ/\》馴染《なじみ》が度重《たびかさな》ると、へい、朝顔《あさがほ》の花《はな》打沈《ぶちしづ》めたやうに、襟《ゑり》も咽喉《のど》も色《いろ》が分《わか》つて、口《くち》で言《い》ひやうは知《し》らぬけれど、目附《めつき》なり額《ひたひ》つきなり、押魂消《おつたまげ》た別嬪《べつぴん》が、過般中《いつかぢゆう》から、同《おな》じ時分《じぶん》に、私《わし》と顔《かほ》を合《あ》はせると、水《みづ》の中《なか》で莞爾《につこり》笑《わら》ふ。……
 や、其《そ》の笑顔《ゑがほ》を思《おも》ふては、地韜《ぢだんだ》踏《ふ》んで堪《こら》へても小家《こや》へは寐《ね》られぬ。雨《あめ》が降《ふ》れば簑《みの》を着《き》て、月《つき》の良《い》い夜《よ》は頬被《ほゝかぶ》り。つひ一晩《ひとばん》も欠《か》かさねえで、四手場《よつでば》も此《こ》の爺《ぢい》も、岸《きし》に居着《ゐつ》きの巌《いは》のやうだ――扨《さて》気《き》が着《つ》けばひよんな事《こと》、沼《ぬま》の主《ぬし》に魅入《みい》られた、何《なに》か前世《ぜんせ》の約束《やくそく》で、城《じやう》ヶ|沼《ぬま》の番人《ばんにん》に成《な》つたゞかな。何処《どこ》で死《し》ぬ身《み》と考《かんが》える、と心細《こゝろぼそ》い身《み》の上《うへ》ぢやが、何《なん》と為《し》ても思切《おもひき》れぬ……
 いけ年《どし》を為《し》た爺《ぢゞい》が、女色《いろ》に迷《まよ》ふと思《おも》はつしやるな。持《も》たぬ孫《まご》の可愛《かあい》さも、見《み》ぬ極楽《ごくらく》の恋《こひ》しいも、これ、同《おな》じ事《こと》と考《かんが》えたゞね。……
 さて困《こま》つたは、寒《さむ》ければ、へい、寒《さむ》し、暑《あつ》ければ暑《あつ》い身躰《からだ》ぢや、飯《めし》も食《く》へば、酒《さけ》も飲《の》むで、昼間《ひるま》寐《ね》て夜《よる》出懸《でか》けて、沼《ぬま》の姫様《ひいさま》見《み》るは可《え》えが、そればかりでは活《い》きて居《ゐ》られぬ。」


       雲《くも》の声《こゑ》


         二十二

 譬《たと》へば幻《まぼろし》の女《をんな》の姿《すがた》に憧《あこ》がるゝのは、老《おひ》の身《み》に取《と》り、極楽《ごくらく》を望《のぞ》むと同《おな》じと為《す》る。けれども其《そ》の姿《すがた》を見《み》やうには、……沼《ぬま》へ出掛《でか》けて、四《よ》つ手場《でば》に蹲《つくば》つて、或《ある》刻限《こくげん》まで待《ま》たねばならぬ。で、屋根《やね》から月《つき》が射《さ》すやうな訳《わけ》には行《ゆ》かない。其処《そこ》で、稼《かせ》ぎも為《せ》ず活計《くらし》も立《た》てず、夜毎《よごと》に沼《ぬま》の番《ばん》の難行《なんぎやう》は、極楽《ごくらく》へ参《まゐ》りたさに、身投《みな》げを為《す》るも同《おな》じ事《こと》、と老爺《ぢゞい》は苦笑《にがわら》ひをしながら言《い》つた。
 そんなら、四《よ》つ手場《でば》を留《や》めにして、小家《こや》で草鞋《わらぢ》でも造《つく》れば可《いゝ》が、因果《いんぐわ》と然《さ》うは断念《あきら》められず、日《ひ》が暮《く》れると、そゝ髪立《がみた》つまで、早《は》や魂《たましひ》は引窓《ひきまど》から出《で》て、城《じやう》ヶ|沼《ぬま》を差《さ》してふわ/\と白《しろ》い蝙蝠《かはほり》のやうに※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]《さまよ》ひ行《ゆ》く。
 待《ま》てよ、恁《か》うまで、心《こゝろ》を曳《ひ》かるゝのは、よも尋常《たゞ》ごとでは有《あ》るまい。伝《つた》へ聞《き》く沼《ぬま》の中《なか》へは古城《こじやう》の天守《てんしゆ》が倒《さかさま》に宿《やど》る……我《わ》が祖先《そせん》の術《じゆつ》の為《ため》に、怪《あや》しき最後《さいご》を遂《と》げた婦《をんな》が、子孫《しそん》に絡《まつは》る因縁事《いんねんごと》か。其《それ》とも弔《とむ》らはれず浮《う》かばぬ霊《れい》が、無言《むごん》の中《うち》に供養《くやう》を望《のぞ》むのであらうも知《し》れぬ。独《ひと》りでは何《なに》しろ荷《に》が重《おも》い。村《むら》の誰《たれ》にかも見《み》せて、怪《あや》しさを唯《たゞ》※[#「さんずい+散」、122−3]《しぶき》の如《ごと》く散《ち》らさう、と人《ひと》に告《つ》げぬのでは無《な》いけれども、昼間《ひるま》さへ、分《わ》けて夜《よる》に成《な》つて、城《じやう》ヶ|沼《ぬま》の三町四方《さんちやうしはう》へ寄附《よりつ》かうと言《い》ふ兄哥《せなあ》は居《を》らぬ。
 殆《ほと》んど我身《わがみ》を持《も》て余《あま》した頃《ころ》の、其《そ》の夜《よ》……
「お前様《めえさま》が逢《あ》はしつた坊主《ばうず》が来《き》て、のつそり立《た》つた。や、これも怪《あや》しい。顔色《かほいろ》の蒼《あを》ざめた墨《すみ》の法衣《ころも》の、がんばり入道《にふだう》、影《かげ》の薄《うす》さも不気味《ぶきみ》な和尚《をしやう》、鯰《なまづ》でも化《ば》けたか、と思《おも》ふたが、――恁《か》く/\の次第《しだい》ぢや、御出家《ごしゆつけ》、……大方《おほかた》は亡霊《ばうれい》が廻向《えかう》を頼《たの》むであらうと思《おも》ふで、功徳《くどく》の為《た》め、丑満《うしみつ》まで此処《こゝ》にござつて引導《いんだう》を頼《たの》むでがす。――旅《たび》の疲労《つかれ》も有《あ》らつしやらうか、何《なん》なら、今夜《こんや》は私《わし》が小家《こや》へ休《やす》んで、明日《あす》の晩《ばん》にも、と言《い》ふたが、其《それ》には及《およ》ばぬ……若《も》しや、其《それ》が真実《しんじつ》なら、片時《へんし》も早《はや》く苦艱《くかん》を救《すく》ふて進《しん》ぜたい。南無南無《なむなむ》と口《くち》の裡《うち》で唱《とな》うるで、饗応振《もてなしぶり》に、藁《わら》など敷《し》いて坐《すは》らせて、足代《あじろ》の上《うへ》を黒坊主《くろばうず》と入替《いれかは》つた。
 さあ、身代《みがは》りは出来《でき》たぞ! 一目《ひとめ》彼《あ》の女《をんな》を見《み》され、即座《そくざ》に法衣《ころも》を着《き》た巌《いは》と成《な》つて、一寸《いつすん》も動《うご》けまい、と暗《やみ》の夜道《よみち》を馴《な》れた道《みち》ぢや、すた/\と小家《こや》へ帰《かへ》つてのけた……
 翌朝《あけのあさ》疾《はや》く握飯《にぎりめし》を拵《こしら》へ、竹《たけ》の皮《かは》包《つゝ》みに為《し》て、坊様《ばうさま》を見舞《みまひ》に行《ゆ》きつけ…靄《もや》の中《なか》に影《かげ》もねえだよ。
 はあ、よもや、とは思《おも》ふたが、矢張《やつぱ》り鯰《なまづ》めが来《う》せたげな。えゝ、埒《らち》もない、と気《き》が抜《ぬ》けて、又《また》番人《ばんにん》ぢや、と落胆《がつかり》したゞが、其《そ》の晩《ばん》もう一度《いちど》行《ゆ》く、と待《ま》つとも無《な》う夜《よる》が更《ふ》けても、何時《いつも》の影《かげ》は映《うつ》らなんだ。四手《よつで》を上《あ》げても星《ほし》も懸《かゝ》らず、鬢《びん》の香《か》のする雫《しづく》も落《お》ちぬ。あゝ、引導《いんだう》を渡《わた》したな。勿躰《もつたい》ない、名僧智識《めいそうちしき》で有《あ》つたもの、と足代《あじろ》の藁《わら》を頂《いたゞ》いたゞがの、……其《それ》では、お前様《めえさま》が私《わし》の後《あと》へござつて、其《そ》の坊主《ばうず》に逢《あは》しつたものだんべい。
 ……までは、はあ、分《わか》つたが、私《わし》が城《じやう》ヶ|沼《ぬま》の水《みづ》の映《うつ》る女《をんな》を見《み》はじめたは久《ひさし》い以前《いぜん》ぢや。お前様《めえさま》湯治《たうぢ》にござつて、奥様《おくさま》の行方《ゆきがた》が知《し》れなく成《な》つたは、つひ此《こ》の頃《ごろ》の事《こと》ではねえだか、坊様《ばうさま》は何処《どこ》で聞《き》いて、奥様《おくさま》の言《こと》づけを為《し》たゞがの。」
「其《それ》を坊様《ばうさん》が言《い》つたんです。其《そ》の出家《しゆつけ》の言《い》ふには、
『……人《ひと》は知《し》らぬが、此処《こゝ》に居《ゐ》た老人《らうじん》に、水《みづ》の中《なか
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