ない。首《くび》を締《し》めて殺《ころ》さば殺《ころ》せで、這出《はひだ》すやうに頭《あたま》を突附《つきつ》けると、真黒《まつくろ》に成《な》つて小山《こやま》のやうな機関車《きくわんしや》が、づゝづと天窓《あたま》の上《うへ》を曳《ひ》いて通《とほ》ると、柔《やはらか》いものが乗《の》つたやうな気持《きもち》で、胸《むね》がふわ/\と浮上《うきあが》つて、反身《そりみ》に手足《てあし》をだらりと下《さ》げて、自分《じぶん》の身躰《からだ》が天井《てんじやう》へ附着《くつつ》く、と思《おも》ふとはつと目《め》が覚《さ》める、……夜《よ》は未《ま》だ明《あ》けないのです。
同《おな》じやうな切《せつ》ない夢《ゆめ》を、幾度《いくたび》となく続《つゞ》けて見《み》て、半死半生《はんしはんせい》の躰《てい》で漸《や》つと我《われ》に返《かへ》つた時《とき》、亭主《ていしゆ》が、
『御国許《おくにもと》へ電報《でんぱう》をお掛《か》け被成《なさ》りましては如何《いかゞ》でござりませう。』と枕許《まくらもと》に坐《すは》つて居《ゐ》ました。
『馬鹿《ばか》な。』
と一言《いちごん》のもとに卻《しりぞ》けたんです。」
十八
「怪我《けが》、過失《あやまち》、病気《びやうき》なら格別《かくべつ》、……如何《いか》に虚気《うつけ》なればと言《い》つて、」
雪枝《ゆきえ》は老爺《ぢゞい》に此《これ》を語《かた》る時《とき》、濠端《ほりばた》の草《くさ》に胡座《あぐら》した片膝《かたひざ》に、握拳《にぎりこぶし》をぐい、と支《つ》いて腹《はら》に波立《なみた》つまで気兢《きほ》つて言《い》つた。
「女房《にようばう》が紛失《ふんしつ》した、と親類《しんるゐ》知己《ちき》へ電報《でんぱう》は掛《か》けられない。
『何《なに》しろ、最《も》う些《ちつ》と手懸《てがゝ》りの出来《でき》るまで其《それ》は見合《みあ》はせやう。』
『で、ござりまするが、念《ねん》のために、お国許《くにもと》へお知《し》らせに成《な》りましては如何《いかゞ》なもので、』
『可《いゝ》から、死骸《しがい》でも何《なん》でも見着《みつ》かつた時《とき》にせう。』
『其《そ》の、へい……死骸《しがい》が何《ど》うも、』
『何《なん》だ、死骸《しがい》が分《わか》らん。』
私《わたし》は胸《むね》が裂《さ》けるほど亭主《ていしゆ》の言葉《ことば》が気《き》に障《さは》つた。最《も》う死骸《しがい》に成《な》つてる、と言《い》つたやうな、奴《やつ》の言種《いひぐさ》が何《なん》とも以《もつ》て可忌《いまは》しい。
『己《おれ》が見着《みつ》けて持《も》つて帰《かへ》る、死骸《しがい》の来《く》るのを待《ま》つて居《を》れ。』と睨《にら》みつけて廊下《らうか》を蹴立《けた》てゝ出《で》た――帳場《ちやうば》に多人数《たにんず》寄合《よりあ》つて、草鞋穿《わらぢばき》の巡査《じゆんさ》が一人《ひとり》、框《かまち》に腰《こし》を掛《か》けて居《ゐ》たが、矢張《やつぱり》此《こ》の事《こと》に就《つ》いてらしい。
痘痕《あばた》のある柔和《にうわ》な顔《かほ》で、気《き》の毒《どく》さうに私《わたし》を見《み》た。が口《くち》も利《き》かないでフイと門《かど》を、人《ひと》から振《ふり》もぎる身躰《からだ》のやうにづん/\出掛《でか》けた。」
雲《くも》は白《しろ》く山《やま》は蒼《あを》く、風《かぜ》のやうに、水《みづ》のやうに、颯《さつ》と青《あを》く、颯《さつ》と白《しろ》く見《み》えるばかりで、黒髪《くろかみ》濃《こ》い緑《みどり》、山椿《やまつばき》の一輪《いちりん》紅色《べにいろ》をした褄《つま》に擬《まが》ふやうな色《いろ》さへ、手《て》がゝりは全然《まるで》ない。
目《め》が眩《くら》むほど腹《はら》が空《す》けば、よた/\と宿《やど》へ帰《かへ》つて、
『おい、飯《めし》を食《く》はせろ。』
で、又《また》飛出《とびだ》す、崖《がけ》も谷《たに》もほつゝき歩行《ある》く、――と雲《くも》が白《しろ》く、山《やま》が青《あを》い。……外《ほか》に見《み》えるものは何《なん》にもない。目《め》が青《あを》く脳《なう》が青《あを》く成《な》つて了《しま》つたかと思《おも》ふばかり。時々《とき/″\》黒《くろ》いものがスツスツと通《とほ》るが、犬《いぬ》だか人間《にんげん》だか差別《さべつ》がつかぬ……客人《きやくじん》は変《へん》に成《な》つた、気《き》が違《ちが》つた、と云《い》ふ声《こゑ》が嘲《あざ》ける如《ごと》く、憐《あはれ》む如《ごと》く、呟《つぶや》く如《ごと》く、また咒咀《のろ》ふ如《ごと》く耳《みゝ》に入《はい》る……
『お客様《きやくさま》、』
『奥様《おくさま》』と呼《よ》ぶのが峯《みね》から伝《つた》はる。谺《こだま》を返《かへ》して谷《たに》へカーンと響《ひゞ》く、――雲《くも》が白《しろ》く、山《やま》が青《あを》く、風《かぜ》が吹《ふ》いて水《みづ》が流《なが》れる。
『客人《きやくじん》は気《き》が違《ちが》つた、』と言《い》ふのが分《わか》る。
「可《よし》、何《なん》とでも言へ、昨日《きのふ》今日《けふ》二世《にせ》かけて契《ちぎり》を結《むす》んだ恋女房《こひにようばう》がフト掻消《かきけ》すやうに行衛《ゆくゑ》が知《し》れない。其《それ》を捜《さが》すのが狂人《きちがひ》なら、飯《めし》を食《く》ふものは皆《みな》狂気《きちがひ》、火《ひ》が熱《あつ》いと言《い》ふのも変《へん》で、水《みづ》が冷《つめた》いと思《おも》ふも可笑《をか》しい。温泉《をんせん》の湧出《わきだ》すなどは、沙汰《さた》の限《かぎ》りの狂気山《きちがひやま》だ、はゝゝはゝ、」
と雪枝《ゆきえ》は額髪《ひたひがみ》を揺《ゆす》るまで、膝《ひざ》を抱《かゝ》へて、高笑《たかわらひ》を遣《や》つた。
雲《くも》が動《うご》いて、薄日《うすび》が射《さ》して、反《そ》らした胸《むね》と、仰《あふ》いだ其《そ》の額《ひたひ》を微《かす》かに照《て》らすと、ほつと酔《よ》つたやうな色《いろ》をしたが、唇《くちびる》は白《しろ》く、目《め》は血走《ちばし》るのである。
老爺《ぢゞい》は小首《こくび》を傾《かたむ》けた。
急《きふ》に又《また》雪枝《ゆきえ》は、宛然《さながら》稚子《おさなご》の為《す》るやうに、両掌《りやうて》を双《さう》の目《め》に確《しか》と当《あ》てゝ、がつくり俯向《うつむ》く、背中《せなか》に雲《くも》の影《かげ》が暗《くら》く映《さ》した。
「其《そ》の中《うち》に四辺《あたり》が真暗《まつくら》に成《な》つた。暗《くら》く成《な》つたのは夜《よる》だらう、夜《よる》の暗《くら》さの広《ひろ》いのは、田《た》か畠《はたけ》か平地《ひらち》らしい、原《はら》かも知《し》れない……一目《ひとめ》其《そ》の際限《さいげん》の無《な》い夜《よる》の中《なか》に、墨《すみ》が染《にじ》んだやうに見《み》えたのは水《みづ》らしかつた……が、水《みづ》でも構《かま》はん、女房《にようばう》の行衛《ゆくゑ》を捜《さが》すのに、火《ひ》の中《なか》だつて厭《いと》ひは為《し》ない。づか/\踏込《ふみこ》まうとすると、
『あゝ、深《ふか》いぞ、誰《たれ》ぢや、水《みづ》へ……』
と其時《そのとき》、暗《くら》がりから、しやがれた声《こゑ》を掛《か》けて、私《わたし》を呼留《よびと》めたものがあります。
暗《やみ》に透《す》かすと、背《せ》の高《たか》い大《おほき》な坊主《ばうず》が居《ゐ》て、地《ち》から三尺《さんじやく》ばかり高《たか》い処《ところ》、宙《ちう》で胡座《あぐら》掻《か》いたも道理《だうり》、汀《みぎは》へ足代《あじろ》を組《く》んで板《いた》を渡《わた》した上《うへ》に構込《かまへこ》んで、有《あ》らう事《こと》か、出家《しゆつけ》の癖《くせ》に、……水《みづ》の中《なか》へは広《ひろ》い四手網《よつであみ》が沈《しづ》めてある。」
老爺《ぢゞい》は眉毛《まゆげ》をひくつかせた。
「はての。」
城《じやう》ヶ|沼《ぬま》
十九
「其《そ》の入道《にふだう》の、のそ/\と身動《みうご》きするのが、暗夜《やみ》の中《なか》に、雲《くも》の裾《すそ》が低《ひく》く舞下《まひさが》つて、水《みづ》にびつしより浸染《にじ》んだやうに、ぼうと水気《すゐき》が立《た》つので、朦朧《もうろう》として見《み》えた。
『沼《ぬま》ぢや、気《き》を着《つ》けやれ』と打切《ぶつき》つたやうに言《い》ひます。
『沼《ぬま》でも海《うみ》でも、女房《にようばう》が居《ゐ》れば入《はい》らずに置《お》けない。』
苛々《いら/\》するから、此方《こつち》はふてくされで突掛《つゝかゝ》る。
と入道《にふだう》が耳《みゝ》を貫《つらぬ》いて、骨髄《こつずゐ》に徹《とほ》る事《こと》を、一言《ひとこと》。
『はゝあ、此処《こゝ》なは、御身《おみ》が内儀《ないぎ》か、』
と言《い》ふ。
『此処《こゝ》なは……私《わたし》の……女房《にようばう》だと? ……』
『おゝ、私《わし》が今《いま》出逢《であ》ふた、水底《みなぞこ》から仰向《あふむ》けに顔《かほ》を出《だ》いた婦人《をんな》の事《こと》ぢや。』
『や、溺《おぼ》れて死《し》んだか。』
とばつたり膝《ひざ》を支《つ》く、と入道《にふだう》は足代《あじろ》の上《うへ》から、蔽被《おつかぶ》さるやうに覗《のぞ》いて、
『待《ま》て、待《ま》て、死骸《しがい》を見《み》たでは無《な》い。ぢやが、正《しやう》のものでもなかつた……謂《い》はゞ影《かげ》ぢやな。声《こゑ》の有《あ》る色《いろ》の有《あ》る影法師《かげぼふし》ぢや……其《そ》のものから、御身《おみ》に逢《あ》ふて話《はな》してくれい、と私《わし》が托言《ことづけ》をされたよ。……
何《なに》かな、御身《おみ》は遠方《ゑんぱう》から、近頃《ちかごろ》此《こ》の双六《すごろく》の温泉《をんせん》へ、夫婦《ふうふ》づれで湯治《たうぢ》に来《き》て、不図《ふと》山道《やまみち》で其《そ》の内儀《ないぎ》の行衛《ゆくゑ》を失《うしな》ひ、半狂乱《はんきやうらん》に捜《さが》してござる御仁《ごじん》かな。』とつけ/\訊《たづ》ねる。
女房《にようばう》が失《う》せて半狂乱《はんきやうらん》、」
と雪枝《ゆきえ》は、思出《おもひだ》すのも、口惜《くや》しさうに歯噛《はが》みをした。
「察《さつ》して下《くだ》さい、……唯《たゞ》其《そ》の音信《たより》の聞《き》きたさに、
『えゝ、其《その》ものです』と返事《へんじ》を為《し》ました。
『やれ/\、気《き》の毒《どく》。』
とさら/\と法衣《ころも》の袖《そで》を掻合《かきあ》はせる音《おと》がして、
『私《わし》は旅《たび》のものぢやが、此《こ》の沼《ぬま》は、城《じやう》ヶ|沼《ぬま》と言《い》ふげぢやよ。』
老爺《おぢい》さん、其処《そこ》は城《じやう》ヶ|沼《ぬま》と言《い》ふ処《ところ》だつた。」
雪枝《ゆきえ》は息《いき》せはしく成《な》つて一息《ひといき》吐《つ》く。ト老爺《ぢい》は煙草《たばこ》を払《はた》いた。吸殻《すゐがら》の落《おち》た小草《をぐさ》の根《ね》の露《つゆ》が、油《あぶら》のやうにじり/\と鳴《な》つて、煙《けむり》が立《た》つと、ほか/\薄日《うすび》に包《つゝ》まれた。雲《くも》は稍《やゝ》薄《うす》く成《な》つたが、天守《てんしゆ》の棟《むね》は、聳《そび》え立《た》つ峯《みね》よりも空《そら》に重《おも》い。
「えゝ、城《じやう》ヶ|沼《ぬま》の。はあ、夢中《むちゆう》で其処《そこ》ら駆廻《かけめぐ》らしつたものと見《み》える……それは山《やま》の上《うへ》では無《な》い。お前様《めえさま
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