行《ある》いた事《こと》を言出《いひだ》すと、皆《みな》まで恥《はぢ》を言《い》はぬ内《うち》に……其《そ》の若《わか》い男《をとこ》が半分《はんぶん》で合点《がつてん》したんです。」
 さあ、亭主《ていしゆ》も飛《とん》でも無《な》い顔《かほ》をする。捜《さが》すのに、湯殿《ゆどの》や小用場《こようば》では追着《おつつ》かなく成《な》つた。
『権七《ごんしち》や、主《ぬし》は先《ま》づ、婆様《ばあさま》が店《みせ》へ走《はし》れ、旦那様《だんなさま》、早速《さつそく》人《ひと》を出《だ》しますで、お案《あん》じなさりませんやうに。主《ぬし》も働《はたら》いてくれ、さあ、来《こ》い、』
と若《わか》いものを連《つ》れて、どたばた引上《ひきあ》げる時分《じぶん》には、部屋《へや》の前《まへ》から階子段《はしごだん》の上《うへ》へ掛《か》けて、女中《ぢよちゆう》まじりに、人立《ひとだ》ちがするくらゐ、二階《にかい》も下《した》も何《なに》となく騒《さは》ぎ立《た》つ。
 雨戸《あまど》を開《あ》けて欄干《らんかん》から外《そと》を見《み》ると、山気《さんき》が冷《ひやゝ》かな暗《やみ》を縫《ぬ》つて、橋《はし》の上《うへ》を提灯《ちやうちん》が二《ふた》つ三《み》つ、どや/\と人影《ひとかげ》が、道《みち》を右左《みぎひだり》へ分《わか》れて吹立《ふきた》てる風《かぜ》に飛《と》んで行《ゆ》く。
 真先《まつさき》に案内者《あんないしや》権七《ごんしち》の帰《かへ》つて来《き》たのが、ものゝ半時《はんとき》と間《あひだ》は無《な》かつた。けれども、足《あし》を爪立《つまだ》つて待《ま》つて居《ゐ》る身《み》には、夜中《よなか》までかゝつたやうに思《おも》ふ。
 婆《ばあ》さんに聞《き》けば、夫婦《ふうふ》づれの衆《しゆ》は、内《うち》で采粒《さいつぶ》を買《か》はつしやると、両方《りやうはう》で顔《かほ》を見合《みあ》ひながら後退《あとしざ》りをして、向《むか》ふ崖《がけ》の暗《くら》い方《はう》へ入《はい》つたまで。それからは覚《おぼ》えて居《を》らぬ。目《め》は踈《うと》し、暮方《くれがた》ではあり、やがて暗《くら》くなつて了《しま》つた、と権七《ごんしち》が言《い》ふ。
 のみ、手懸《てがゝ》りは何《なん》にも無《な》い。
『矢張《やつぱり》何《なに》か私《わたし》のやうに、魅《つま》まれて路《みち》を迷《まよ》つたらうか。』
『然《さ》うでもござりやすめえ、奥様《おくさま》は、其《そ》のお前様《めえさま》を捜《さが》し歩行《ある》いて、其《それ》で未《ま》だ、お帰《かへ》りが無《な》いのでござりやせうで、天狗様《てんぐさま》も二人一所《ふたりいつしよ》に攫《さら》はつしやることは滅多《めつた》にねえ事《こと》でござります。今《いま》にお帰《かへ》りに成《な》るでござりやしやう。宿《やど》でも心配《しんぱい》をして居《を》りますで、夜一夜《よつぴて》寐《ね》ねえで捜《さが》しますで、お前様《めえさま》は、まあ、休《やす》まつしやりましたが可《よ》うござります。』
 気《き》が気《き》では無《な》い。一所《いつしよ》に捜《さが》しに出《で》かけやうと言《い》ふと、いや/\山坂《やまさか》不案内《ふあんない》な客人《きやくじん》が、暗《やみ》の夜路《よみち》ぢや、崖《がけ》だ、谷《たに》だで、却《かへ》つて足手絡《あしてまと》ひに成《な》る。……案内者《あんないしや》に雇《やと》はれるものが、何《なに》も知《し》らない前《まへ》に道案内《みちあんない》を為《し》たと言《い》ふも何《なに》かの縁《えん》と思《おも》ふ。人一倍《ひといちばい》精出《せいだ》して捜《さが》さうから静《しづ》かに休《やす》め、と頼母《たのも》しく言《い》つて、すぐに又《また》下階《した》へ下《お》りた。
 一時《ひとしきり》騒々《さう/″\》しかつたのが、寂寞《ひつそり》ばつたりして平時《いつも》より余計《よけい》に寂《さび》しく夜《よ》が更《ふ》ける……さあ、一分《いつぷん》、一秒《いちびやう》、血《ち》が冷《ひ》え、骨《ほね》が刻《きざ》まれる思《おも》ひ。時《とき》が経《た》てば経《た》つだけ、それだけお浦《うら》の帰《かへ》る望《のぞ》みが無《な》くなると言《い》つた勘定《かんぢやう》。九時《くじ》が十時《じふじ》、十一時《じふいちじ》を過《す》ぎても音沙汰《おとざた》が無《な》い。時々《とき/″\》、廊下《らうか》を往通《ゆきかよ》ふ女中《ぢよちゆう》が、通《とほ》りすがりに、
『何《ど》う遊《あそ》ばしたのでございませう、』
『うむ、』
『御心配《ごしんぱい》でございます。』
『あゝ、』
 ――返答《へんたふ》が出来《でき》ないで、溜息《ためいき》を吐《つ》く顔《かほ》を見《み》て、遁《に》げるやうに二三人《にさんにん》摺《す》り抜《ぬ》けた。
 やがて十二時《じふにじ》を打《う》つた。女中《ぢよちゆう》が床《とこ》を取《と》りに来《き》て、一《ひと》つ伸《の》べて、二《ふた》つ並《なら》べやうと為《し》たので、
『そりや可《よ》からう、』と言《い》つた時《とき》は我《われ》ながら変《へん》な声《こゑ》だと思《おも》つた。……勿論《もちろん》寐《ね》もせず、枕元《まくらもと》へ例《れい》の紫縞《むらさきじま》のを摺《ず》らして、落着《おちつ》かない立膝《たてひざ》で何《なに》を聞《き》くとも無《な》く耳《みゝ》を澄《す》ますと、谿河《たにがは》の流《ながれ》がざつと響《ひゞ》くのが、落《お》ちた、流《なが》れた、打当《ぶちあ》てた、岩《いは》に砕《くだ》けた、死《しん》だ――と聞《き》こえる。
『あゝつ、』と忌《いま》はしさに手《て》で払《はら》つて、坐《すは》り直《なほ》して其処等《そこら》を※[#「目+旬」、第3水準1−88−80]《みまは》す、と密《そつ》と座敷《ざしき》を覗《のぞ》いた女中《ぢよちゆう》が、黙《だま》つて、スーツと障子《しやうじ》を閉《し》めた。――夜《よ》が更《ふ》けて寒《さむ》からうと、深切《しんせつ》に為《し》たに違《ちがひ》ないが、未練《みれん》らしい諦《あきら》めろ、と愛想尽《あいさうつか》しを為《さ》れたやうで、赫《くわつ》と顔《かほ》が熱《あつ》くなる。
 背中《せなか》がぞつと寒《さむ》く成《な》る……背後《うしろ》を見《み》る、と床《とこ》の間《ま》に袖畳《そでだゝ》みをした女《をんな》の羽織《はおり》、わがねた扱帯《しごき》、何《なに》となく色《いろ》が冷《つめた》く成《な》つて紀念《かたみ》のやうに見《み》えて来《き》た、――持主《もちぬし》が亡《な》くなると、却《かへ》つてそんなものが、手《て》ん手《で》に活《い》きて来《き》たやうに思《おも》はれて、一寸《ちよいと》触《さは》るのも憚《はゞ》かられる。
 何処《どこ》か、しゆつ/\と風《かぜ》が通《とほ》る……

         十七

「うら悲《かな》しい、心細《こゝろぼそ》い、可厭《いや》な声《こゑ》で、
『お客様《きやくさま》あゝ、』
『奥様《おくさま》、』と呼《よ》ぶのが、山颪《やまおろし》の風《かぜ》に響《ひゞ》いて、耳《みゝ》へカーンと谺《こだま》を返《かへ》してズヽンと脳《なう》を抉《えぐ》る。
『お客様《きやくさま》、』
『奥方様《おくがたさま》。』……は情《なさけ》ない。少《すこ》し裏山《うらやま》へ近《ちか》く成《な》つたと思《おも》ふと、女《をんな》の声《こゑ》が交《まじ》つて、
『奥様《おくさま》やあ、』と呼《よ》んだ。ヒイと之《これ》が悲鳴《ひめい》を上《あ》げるやうで、家内《かない》が絞殺《しめころ》される叫《さけ》びに聞《き》こえる、最《も》う堪《たま》りません。
 廊下《らうか》を跣足《はだし》で出《で》て、階子段《はしごだん》の上《うへ》から倒《さかさま》に帳場《ちやうば》を覗《のぞ》いて、
『御主人《ごしゆじん》、御主人《ごしゆじん》、』
と、海《うみ》が凪《な》いだ後《あと》を、ぶる/\震《ふる》へる波《なみ》のやうな畳《たゝみ》の上《うへ》に、男《をとこ》だか女《をんな》だか、二人《ふたり》ばかり打上《うちあ》げられた躰《てい》で、黒《くろ》く成《な》つて突伏《つゝぷ》した真中《まんなか》に、手酌《てじやく》でチビリ/\飲《や》つて居《ゐ》た亭主《ていしゆ》が、むつくり頭《あたま》を上《あ》げて、
『まだ御寐《およ》りませんかな。』と言《い》ひ/\四五段《しごだん》上《のぼ》つた、中途《ちゆうと》の上下《うへした》で欄干《てすり》越《ごし》に顔《かほ》を合《あ》はせた。
『又《また》入《い》れ替《かは》つて出《で》てくれたのかね、あゝ言《い》つて呼《よ》んでるのは、』
『へい、否《いゝえ》、山深《やまふか》く参《まゐ》つたのが、近廻《ちかまは》りへ引上《ひきあ》げて来《き》たでござります。』
『まだ、知《し》れんのだね、あゝして呼立《よびた》てゝ居《ゐ》るのを見《み》ると。』
『へい、何《なに》しろ、早《は》や、山《やま》も谷《たに》も数《すう》が知《し》れん処《ところ》でござりますけにな。……』
と歎息《たんそく》を為《し》たが、面《つら》を振《ふ》つて、嚏《くしやみ》をした。
『しかし、あれでござりましよ。何分《なにぶん》夜《よ》が更《ふ》けましたで、道《みち》を教《をし》へますものも明方《あけがた》まで待《ま》ちませうし、又《また》……奥方様《おくがたさま》も、何《ど》の道《みち》お草臥《くたび》れでござりませうで、いづれにも夜《よ》が明《あ》けましたら、分《わか》るに相違《さうゐ》ござりません。』
『分《わか》るつて? 死骸《しがい》か、』
『えゝ?』
『死《し》んだら其《それ》までだ。』と自棄《やけ》を言《い》つて寐床《ねどこ》へ帰《かへ》つて打倒《ぶつたふ》れた。……
『お客様《きやくさま》、』
『奥様《おくさま》、』と呼《よ》ぶのが十声《とこゑ》ばかりして、やがて、ガラ/\と門《かど》の戸《と》が大《おほ》きく鳴《な》つて開《あ》く。私《わたし》は襟《ゑり》を被《かぶ》つて耳《みゝ》を塞《ふさ》いだ! 誰《だれ》が無事《ぶじ》だ、と知《し》らせて来《き》ても、最《も》う聞《き》くまい、と拗《す》ねたやうに……勿論《もちろん》、何《なん》とも言《い》つては来《き》ません。
 其癖《そのくせ》、ガラ/\と又《また》……今度《こんど》は大戸《おほど》の閉《しま》つた時《とき》は、これで、最《も》う、家内《かない》と私《わたし》は、幽明《いうめい》処《ところ》を隔《へだ》てたと思《おも》つて、思《おも》はず知《し》らず涙《なみだ》が落《お》ちた。…
 ト前刻《さつき》、止《よ》せ、と云《い》つて留《と》めたけれども、其《それ》でも女中《ぢよちゆう》が伸《の》べて行《い》つた、隣《となり》の寐床《ねどこ》の、掻巻《かいまき》の袖《そで》が動《うご》いて、煽《あふ》るやうにして揺起《ゆりおこ》す。
『おゝ、』と飛附《とびつ》くやうな返事《へんじ》を為《し》て顔《かほ》を出《だ》したが、固《もと》より誰《たれ》も居《ゐ》やう筈《はず》は無《な》い。枕《まくら》ばかり寂《さび》しく丁《ちやん》とあり、木賃《きちん》で無《な》いのが尚《な》ほうら悲《かな》しい。
 熟《じつ》と視詰《みつ》めて、茫乎《ぼんやり》すると、並《なら》べた寐床《ねどこ》の、家内《かない》の枕《まくら》の両傍《りやうわき》へ、する/\と草《くさ》が生《は》へて、短《みじか》いのが見《み》る/\伸《の》びると、蔽《おほ》ひかゝつて、萱《かや》とも薄《すゝき》とも蘆《あし》とも分《わか》らず……其《そ》の中《なか》へ掻巻《かいまき》がスーと消《き》える、と大《おほき》な蛇《へび》がのたりと寐《ね》て、私《わたし》の方《はう》へ鎌首《かまくび》を擡《もた》げた。ぐつたりして手足《てあし》を働《はたら》かす元気《げんき》も
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