れ》も増《ま》さない。で、足《あし》を運《はこ》ぶ内《うち》に至《いた》り着《つ》いたので、宛然《さながら》、城址《しろあと》の場所《ばしよ》から、森《もり》を土塀《どべい》に、一重《ひとへ》隔《へだ》てた背中合《せなかあ》はせの隣家《となり》ぐらゐにしか感《かん》じない。――最《もつと》も案内《あんない》をすると云《い》ふ老爺《ぢい》より、坊主《ばうず》の方《はう》が、すた/\先《さき》へ立《た》つて歩行《ある》いたが。
時《とき》に、真先《まつさき》に、一朶《いちだ》の桜《さくら》が靉靆《あいたい》として、霞《かすみ》の中《なか》に朦朧《もうろう》たる光《ひかり》を放《はな》つて、山懐《やまふところ》に靡《なび》くのが、翌方《あけがた》の明星《みやうじやう》見《み》るやう、巌陰《いはかげ》を出《で》た目《め》に颯《さつ》と映《うつ》つた。
四五六谷《しごろくだに》
四十三
「叱《しつ》!」
と老爺《ぢい》が警蹕《けいひつ》めいた声《こゑ》を、我《われ》と我《わ》が口《くち》へ轡《くつわ》に懸《か》ける。
トなだらかな、薄紫《うすむらさき》の崖《がけ》なりに、桜《さくら》の影《かげ》を霞《かすみ》の被衣《かつぎ》、ふうわり背中《せなか》から裳《すそ》へ落《おと》して、鼓草《たんぽゝ》と菫《すみれ》の敷満《しきみ》ちた巌《いは》を前《まへ》に、其《そ》の美女《たをやめ》が居《ゐ》たのである。
少時《しばらく》、一行《いつかう》は呼吸《いき》を凝《こ》らした。
見《み》よ! 見《み》よ! 巌《いは》の面《めん》は滑《なめら》かに、質《しつ》の青《あを》い艶《つや》を刻《きざ》んで、花《はな》の色《いろ》を映《うつ》したれば、恰《あたか》も紫《むらさき》の筋《すぢ》を彫《ほ》つた、自然《しぜん》に奇代《きたい》の双六磐《すごろくいは》。磐面《ばんめん》には花《はな》を摘《つ》んだ、大輪《だいりん》の菫《すみれ》と鼓草《たんぽゝ》とが、陽炎《かげらふ》の輝《かゞや》く中《なか》に、鼓草《たんぽゝ》は濃《こ》く、菫《すみれ》は薄《うす》く、美《うつく》しく色《いろ》を分《わか》つて、十二輪《じふにりん》、十二輪《じふにりん》、二十四輪《にじふしりん》の駒《こま》なるよ……向《むか》ふ合《あ》はせに区劃《くぎり》を隔《へだ》てゝ、二輪《にりん》、一輪《いちりん》、一輪《いちりん》、二輪《にりん》、空《そら》に蒔絵《まきゑ》した星《ほし》の如《ごと》く、浮彫《うきぼり》したやう並《なら》べられた。
美女《たをやめ》は、やゝ俯向《うつむ》いて、其《そ》の駒《こま》を熟《じつ》と視《なが》める風情《ふぜい》の、黒髪《くろかみ》に唯《たゞ》一輪《いちりん》、……白《しろ》い鼓草《たんぽゝ》をさして居《ゐ》た。此《こ》の色《いろ》の花《はな》は、一谷《ひとたに》に他《ほか》には無《な》かつた。
軽《かる》く其《そ》の黒髪《くろかみ》を戦《そよ》がしに来《く》る風《かぜ》もなしに、空《そら》なる桜《さくら》が、はら/\と散《ち》つたが、鳥《とり》も啼《な》かぬ静《しづ》かさに、花片《はなびら》の音《おと》がする……一片《ひとひら》……二片《ふたひら》……三片《みひら》……
「三《みツ》つ」と鶯《うぐひす》のやうな声《こゑ》、袖《そで》のあたりが揺《ゆ》れたと思《おも》へば、蝶《てふ》が一《ひと》ツひら/\と来《き》て、磐《ばん》の上《うへ》をすつと行《ゆ》く……
「一《ひと》つ、」
と美女《たをやめ》は又《また》算《かぞ》へて、鼓草《たんぽゝ》の駒《こま》を取《と》つて、格子《かうし》の中《なか》へ、……菫《すみれ》の花《はな》の色《いろ》を分《わ》けて、静《しづか》に置替《おきか》へながら、莞爾《につこ》と微笑《ほゝゑ》む。……
気高《けだか》い中《なか》に其《そ》の優《やさ》しさ。
「は、」と、思《おも》はず雪枝《ゆきえ》は、此方《こなた》に潜《ひそ》みながら押堪《おしこら》へた息《いき》が発奮《はづ》んだ。
「誰《たれ》? ……」
と美女《たをやめ》の声《こゑ》が懸《かゝ》る。
老爺《ぢい》は咳《しはぶき》を一《ひと》つ故《わざ》として、雪枝《ゆきえ》の背中《せなか》を丁《とん》と突出《つきだ》す。これに押出《おしだ》されたやうに、蹌踉《よろめ》いて、鼓草《たんぽゝ》菫《すみれ》の花《はな》を行《ゆ》く、雲《くも》踏《ふ》む浮足《うきあし》、ふらふらと成《な》つたまゝで、双六《すごろく》の前《まへ》に渠《かれ》は両手《りやうて》を支《つ》いて跪《ひざまづ》いたのであつた。
坊主《ばうず》は懐中《ふところ》の輪袈裟《わげさ》を取《と》つて懸《か》け、老爺《ぢい》は麻袋《あさふくろ》を探
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