通《とほ》り、温泉《をんせん》は左右《さいう》へ見上《みあ》げるやうな山《やま》を控《ひか》へた、ドン底《ぞこ》から湧《わ》きます。
 で、婆《ばあ》さんの店《みせ》の有《あ》つたのは南《みなみ》の坂《さか》で、此《こ》の城趾《しろあと》は北《きた》の山路《やまみち》から来《く》るのでせう。
 土地《とち》の男《をとこ》に様子《やうす》を聞《き》いて、
『あゝ、魅《つま》まれた……魅《つま》まれたんだ。いや、薄髯《うすひげ》の生《は》へた面《つら》で、何《なん》とも面目《めんぼく》次第《しだい》もない。』
と頻《しきり》に面目《めんもく》ながる癖《くせ》に、あは/\得意《とくい》らしい高笑《たかわら》ひを行《や》つた。家内《かない》の無事《ぶじ》を祝福《しゆくふく》する心《こゝろ》では、自分《じぶん》の魅《み》せられたのを、却《かへ》つて幸福《かうふく》だと思《おも》つて喜《よろこ》んだんです。
『豪《えら》い、東京《とうきやう》の客《きやく》を魅《だま》すのは豪儀《がうぎ》だ。ひよい、と抱《だ》いて温泉宿《をんせんやど》の屋根越《やねごし》に山《やま》を一《ひと》つ、まるで方角《はうがく》の違《ちが》つた処《ところ》へ、私《わたし》を持《も》つて来《き》た手際《てぎは》と云《い》ふのは無《な》い。何《なに》か、此《こ》の辺《へん》に、有名《いうめい》な狐《きつね》でも居《ゐ》るか。』
と酔《よ》つぱらひのやうな言《こと》を云《い》つて、ひよろ/\為《し》ながら、其《そ》の男《をとこ》に導《みちび》かれて引返《ひきかへ》す。
『狐《きつね》や狸《たぬき》ではござりましねえ、お天守《てんしゆ》にござる天狗様《てんぐさま》だのエ、時々《とき/″\》悪戯《いたづら》をさつしやります。』
『何《なに》天狗《てんぐ》。』
と云《い》ふと慌《あはたゞ》しく袂《たもと》を曳《ひ》いて、
『えゝ、大《おほき》な声《こゑ》をさつしやりますな、聞《き》こえるがのエ』と、蒼《あを》い顔《かほ》して、其《そ》の男《をとこ》は、足許《あしもと》を樹《き》の梢《こずゑ》から透《す》いて見《み》える、燈《ともしび》の影《かげ》を指《ゆびさ》したんです。」


       谺《こだま》


         十五

 で、其処《そこ》が温泉宿《をんせんやど》だ、と教《をし》へて、山間《やまあひ》
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