《かほ》も視《み》られん、何《なん》にも成《な》らない。然《さ》うすりや、何《なに》を救《すく》ふんだか、救《すく》はれるんだか、……何《なに》を言《い》ふんだか、はゝはゝ。」
と取留《とりと》めもなく笑《わら》つた拍子《ひやうし》に、草《くさ》を踏《ふ》んだ爪先下《つまさきさが》りの足許《あしもと》に力《ちから》が抜《ぬ》けたか、婦《をんな》を肩《かた》に、恋《こひ》の重荷《おもに》の懸《かゝ》つた方《はう》の片膝《かたひざ》をはたと支《つ》く、トはつと手《て》を離《はな》すと同時《どうじ》に、婦《をんな》の黒髪《くろかみ》は頬摺《ほゝず》れにづるりと落《お》ちて、前伏《まへぶし》に、男《をとこ》の膝《ひざ》へ背《せな》が偃《のめ》つて、弱腰《よわごし》を折重《をりかさ》ねた。
「あつ!」と慌《あはたゞ》しく、青年《わかもの》は其《そ》の帯《おび》の上《うへ》へ手《て》を掛《か》けて、
「危《あぶな》い。あゝ、何《なん》て事《こと》だ。――お浦《うら》、」
と言《い》つたは婦《をんな》の名《な》で。
「怪我《けが》はしないか、何処《どこ》も痛《いた》めはしなかつたか。可《よし》、何《なん》ともない。」
婦《をんな》が、あ、とも言《い》はず、声《こゑ》の無《な》いのを、過失《あやまち》はせぬ事《こと》、と頷《うなづ》いて、さあ、起《た》たうとすると些《ちつ》とも動《うご》かぬ。
「起《た》たないか、こんな処《ところ》に長居《ながゐ》は無益《むえき》だ。何《ど》うした。」
と密《そつ》と揺《ゆす》ぶる、手《て》に従《したが》つて揺《ゆす》ぶれるのが、死《し》んだ魚《うを》の鰭《ひれ》を摘《つま》んで、水《みづ》を動《うご》かすと同《おな》じ工合《ぐあひ》で、此方《こちら》が留《や》めれば静《じつ》と成《な》つて、浮《う》きも沈《しづ》みもしない風《ふう》。
はじめて驚《おどろ》いた色《いろ》して、
「何《ど》うかしたか、お浦《うら》。はてな、今《いま》転《ころ》んだつて、下《した》へは落《おと》さん、、怪我《けが》も過失《あやまち》も為《し》さうぢやない。何《なん》だか正体《しやうたい》がないやうだ。矢張《やつぱ》り一時《いちじ》に疲労《つかれ》が出《で》たのか。あゝ、然《さ》う言《い》へば前刻《さつき》から人《ひと》にばかりものを言《い》はせる。確乎《しつかり》
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