雪様《ゆきさま》にお貸《か》し下《くだ》さいまし。」
「心得《こゝろえ》ました。」
と謹《つゝし》んで持《も》つて寄《よ》る、小刀《こがたな》を受取《うけと》ると、密《そ》と取合《とりあ》つた手《て》を放《はな》して、柔《やはら》かに、優《やさ》しく、雪枝《ゆきえ》の手《て》の甲《かう》の、堅《かた》く成《な》つて指《ゆび》も動《うご》かぬを、撫《な》でさすりつゝ、美女《たをやめ》が其《そ》の掌《てのひら》に握《にぎ》らせた。
四辺《あたり》を※[#「目+旬」、第3水準1−88−80]《みまは》し、衣紋《えもん》を直《なほ》して、雪枝《ゆきえ》に向《むか》つて、背後向《うしろむ》きに、双六巌《すごろくいは》に、初《はじ》めは唯《と》腰《こし》を掛《か》ける姿《すがた》と見《み》えたが、褄《つま》を放《はな》して、盤《ばん》の上《うへ》へ、菫《すみれ》鼓草《たんぽゝ》の駒《こま》を除《よ》けて、采《さい》を取《と》つて横《よこ》に寐《ね》た。
陽炎《かげらふ》が裳《もすそ》に懸《かゝ》つた。
美女《たをやめ》の風采《ありさま》は、紫《むらさき》の格目《こまめ》の上《うへ》に、虹《にじ》を枕《まくら》した風情《ふぜい》である。
雪枝《ゆきえ》は、倒《たふ》れたと見《み》て、つゝと起《た》つた。
「……雪様《ゆきさま》、私《わたし》の目《め》を、私《わたし》の眉《まゆ》を、私《わたし》の額《ひたひ》を、私《わたし》の顔《かほ》を、私《わたし》の髪《かみ》を、此《こ》のまゝに……其《そ》の小刀《こがたな》でお刻《きざ》みなさいまし。」
「や、」と老爺《ぢい》が吃驚《びつくり》して、歯《は》の抜《ぬ》けた声《こゑ》を出《だ》して、
「成程《なるほど》、お天守《てんしゆ》で不足《ふそく》は言《い》ふまい、が、当事《あてこと》もない、滅法界《めつぽふかい》な。」
「雪様《ゆきさま》、痛《いた》くはない。血《ち》も出《で》ぬ、眉《まゆ》を顰《ひそ》めるほどもない。突《つ》いて、斬《き》つて、さあ、小刀《こがたな》で、此《こ》のなりに、……此《こ》のなりに、……」
「思切《おもひき》る、断念《あきら》めた、女房《にようばう》なんぞ汚《けが》らはしい。貴女《あなた》と一所《いつしよ》に置《お》いて下《くだ》さい、お爺《ぢい》さんも頼《たの》んで下《くだ》さい、最《も》う一度《い
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