》いでも覗《のぞ》いても、大牛《おほうし》の形《かたち》は目《め》に留《と》まらなく成《な》つたゝめに、あとは夢中《むちゆう》で、打附《ぶつゝか》れば退《すさ》り、床《ゆか》あれば踏《ふ》み、階子《はしご》あれば上《のぼ》る、其《そ》の何階目《なんかいめ》であつたか分《わか》らぬ。雲《くも》か、靄《もや》か、綿《わた》で包《つゝ》んだやうに凡《およ》そ三抱《みかゝえ》ばかりあらうと思《おも》ふ丸柱《まるばしら》が、白《しろ》く真中《まんなか》にぬつく、と立《た》つ、……と一目《ひとめ》見《み》れば、其《そ》の柱《はしら》の根《ね》に一人《ひとり》悄然《しよんぼり》と立《た》つた婦《をんな》の姿《すがた》……
『お浦《うら》……』と膝《ひざ》を支《つ》いて、摺寄《すりよ》つて緊乎《しつか》と抱《だ》いて、言《い》ふだけの事《こと》を呼吸《いき》も絶々《たえ/″\》に我《われ》を忘《わす》れて※[#「口+堯」、157−12]舌《しやべ》つた。声《こゑ》が籠《こも》つて空《そら》へ響《ひゞ》くか、天井《てんじやう》の上《うへ》――五階《ごかい》のあたりで、多人数《たにんずう》のわや/\もの言《い》ふ声《こゑ》を聞《き》きながら、積日《せきじつ》の辛労《しんらう》と安心《あんしん》した気抜《きぬ》けの所為《せゐ》で、其《その》まゝ前後不覚《ぜんごふかく》と成《な》つた。……
『や』
 心着《こゝろづ》く、と雲《くも》を踏《ふ》んでるやうな危《あぶなつ》かしさ。夫婦《ふうふ》が活《い》きて再《ふたゝ》び天日《てんじつ》を仰《あふ》ぐのは、唯《たゞ》無事《ぶじ》に下《した》まで幾階《いくかい》の段《だん》を降《お》りる、其《それ》ばかり、と思《おも》ふと、昨夜《ゆふべ》にも似《に》ず、爪先《つまさき》が震《ふる》ふ、腰《こし》が、がくつく、血《ち》が凍《こほ》つて肉《にく》が硬《こは》ばる。
『気《き》を着《つ》けて、気《き》を着《つ》けて、危《あぶな》い。』と両方《りやうはう》の脚《あし》の指《ゆび》、白《しろ》いのと、男《をとこ》のと、十本《じふぽん》づゝを、ちら/\と一心不乱《いつしんふらん》に瞻《みつ》めながら、恰《あたか》も断崖《だんがい》を下《お》りるやう、天守《てんしゆ》の下《した》は地《ち》が矢《や》の如《ごと》く流《なが》るゝか、と見《み》えた。……
 雪枝《
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