沼《ぬま》を裏返《うらがへ》して、空《そら》へ漲《みなぎ》らした夜《よる》の色《いろ》――寝《ね》をびれて戸惑《とまど》ひをしたやうな肥《ふと》つた月《つき》が、田《た》の水《みづ》にも映《うつ》らず、山《やま》の姿《すがた》も照《て》らさず……然《さ》うかと言《い》つて並木《なみき》の松《まつ》に隠《かく》れもせず、谷《たに》の底《そこ》にも落《お》ちないで、ふわりと便《たより》のない処《ところ》に、土器色《かはらけいろ》して、畷《なはて》も畝《あぜ》も茫《ばう》と明《あかる》いのに、粘《ねば》つた、生暖《なまぬる》い小糠雨《こぬかあめ》が、月《つき》の上《うへ》からともなく、下《した》からともなく、しつとりと来《き》て、むら/\と途中《とちゆう》で消《き》える……と髪《かみ》も衣《きもの》も濡《ぬ》れもしないで、湿《しめつ》ぽい。が、手《て》で撫《な》でゝ見《み》ても雫《しづく》は分《わか》らぬ。――雨《あめ》が降《ふ》るのではない、月《つき》が欠伸《あくび》する息《いき》がかゝるのであらう……そんな晩《ばん》には獺《かはをそ》が化《ば》けると言《い》ふが、山国《やまぐに》に其《それ》は相応《ふさ》はぬ。イワナが化《ば》けて坊主《ばうず》になつて、殺生禁断《せつしやうきんだん》の説教《せつけう》に念仏《ねんぶつ》唱《とな》へて辿《たど》りさうな。……
 処《ところ》を、歩行《ある》く途中《とちゆう》、人一人《ひとひとり》にも逢《あ》はなんだ、が逢《あ》へば婦《をんな》でも山猫《やまねこ》でも、皆《みな》坊主《ばうず》の姿《すがた》に見《み》えやうと思《おも》つた。
 こん/\と狐《きつね》が啼《な》いた。……犬《いぬ》の声《こゑ》ではない。唯《と》ある松《まつ》の樹《き》の蔭《かげ》で、つひ通《とほ》りかゝつた足許《あしもと》で。
 こん/\こん/\と啼《な》くのに、フト耳《みゝ》を傾《かたむ》けて、虫《むし》を聞《き》くが如《ごと》く立停《たちどま》ると、何《なに》かものを言《い》ふやうで、
『コンクワイ、クワイ、来《こ》ぬかい、来《こ》ぬかい。』と恁《か》う啼《な》く。
『来《こ》ぬかい、来《こ》ぬかい、来《こ》ぬかい、案山子《かゝし》、来《こ》ぬかい案山子《かゝし》、』と又《また》聞《きこ》える。
 聞《き》く中《うち》に、畝《あぜ》の蔭《かげ》から、ひよ
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