処《ところ》が其《そ》の小船《こぶね》は、何《なん》の時《とき》か、向《むか》ふ岸《ぎし》から此《この》岸《きし》へ漕寄《こぎよ》せたものゝ如《ごと》く、艫《とも》を彼方《かなた》に、舳《みよし》を蘆《あし》の根《ね》に乗据《のつす》えた形《かたち》に見《み》える、……何処《どこ》の捨小船《すてをぶね》にも、恁《か》う逆《ぎやく》に攬《もや》つたと言《い》ふのは無《な》からう。まだ変《かは》つた事《こと》には、舷《ふなばた》を霞《かすみ》が包《つゝ》んで、ふつくり浮上《うきあが》つたやうな艫《とも》に留《と》まつて、五位鷺《ごゐさぎ》が一羽《いちは》、頬冠《ほゝかぶり》でも為《し》さうな風《ふう》で、のつと翼《つばさ》を休《やす》めて向《むか》ふむきにチヨンと居《ゐ》た。
 城趾《しろあと》の此《こ》の辺《あたり》は、人里《ひとざと》に遠《とほ》いから、鶏《にはとり》の声《こゑ》、鴉《からす》の声《こゑ》より、先《ま》づ五位鷺《ごゐさぎ》の色《いろ》に夜《よ》が明《あ》けやう。其《それ》に不思議《ふしぎ》は無《な》いが、如何《いか》に人《ひと》を恐《おそ》れねばとて、直《す》ぐ其《そ》の鶏冠《とさか》の上《うへ》で、人一人《ひとひとり》立騒《たちさは》ぐ先刻《さつき》から、造着《つくりつ》けた躰《てい》にきよとんとして、爪立《つまだ》てた片脚《かたあし》を下《お》ろさうともしなかつた。
 此《こ》の船《ふね》の中《なか》へ、どさりと落《おと》した。
 女《をんな》の像《ざう》は胴《どう》の間《ま》へ仰向《あふむ》けに、肩《かた》が舷《ふなべり》にかゝつて、黒髪《くろかみ》は蘆《あし》に挟《はさ》まり、乳《ち》の下《した》から裾《すそ》へ掛《か》けて、薄衣《うすぎぬ》の如《ごと》く霞《かすみ》が靡《なび》けば、風《かぜ》もなしに柔《やはら》かな葉摺《はず》れの音《おと》がそよら/\。で、船《ふね》が一揺《ひとゆす》れ揺《ゆ》れると思《おも》ふと、有繋《さすが》に物駭《ものおどろ》きを為《し》たらしい、艫《とも》に居《ゐ》た五位鷺《ごゐさぎ》は、はらりと其《そ》の紫《むらさき》がゝつた薄黒《うすぐろ》い翼《つばさ》を開《ひら》いた。
 開《ひら》いたが、飛《と》びはしない、で、ばさりと諸翼《もろつばさ》搏《はう》つと斉《ひと》しく、俯向《うつむ》けに頸《くび》を伸《の》
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