いものゝ手《て》を攫《さら》はれて、今《いま》見《み》らるゝ通《とほ》りの苦艱《くげん》を受《う》ける……何《なに》とぞ此《こ》の趣《おもむき》を、温泉《をんせん》に今《いま》も逗留《とうりう》する夫《をつと》に伝《つた》へて、寸時《すんじ》も早《はや》く人間界《にんげんかい》に助《たす》けられたい。救《すく》ふには、天守《てんしゆ》の主人《あるじ》が満足《まんぞく》する、自分《じぶん》の身代《みがは》りに成《な》るほどな、木彫《きぼり》の像《ざう》を、夫《をつと》の手《て》で刻《きざ》んで償《つくな》ふ事《こと》で。其《そ》の他《ほか》に助《たす》かる術《すべ》はない……とあつた。
『都《みやこ》の人《ひと》、唯《たゞ》私《わし》が口《くち》から言《い》ふたでは、余《あまり》の事《こと》に真《まこと》とされまい。……あはれな犠牲《いけにえ》の婦人《をんな》も、唯《たゞ》恁《か》う申《まを》したばかりでは、夫《をつと》も心《こゝろ》に疑《うたが》ひませう……今《いま》其《そ》の印《しるし》を、と言《い》ふてな、色《いろ》は褪《あ》せたが、可愛《かあい》い唇《くちびる》を動《うご》かすと、白歯《しらは》に啣《くは》えたものがある。白魚《しらうを》の目《め》のやうな黒《くろ》い点々《ぽち/\》が一《ひと》つ見《み》えた……口《くち》からは不躾《ぶしつけ》ながら、見《み》らるゝ通《とほ》り縛《いまし》めの後手《うしろで》なれば、指《ゆび》さへ随意《まゝ》には動《うご》かされず……あゝ、苦《くる》しい。と総身《そうしん》を震《ふる》はして、小《ちひ》さな口《くち》を切《せつ》なさうに曲《ゆが》めて開《あ》けると、煽《あふ》つ水《みづ》に掻乱《かきみだ》されて影《かげ》が消《き》えた。戞然《かちり》と音《おと》して足代《あじろ》の上《うへ》へ、大空《おほぞら》からハタと落《お》ちて来《き》たものがある……手《て》に取《と》ると霰《あられ》のやうに冷《つめ》たかつたが、消《き》えも解《と》けもしないで、破《やぶ》れ法衣《ごろも》の袖《そで》に残《のこ》つた。
『印《しるし》はこれぢや。』
と私《わたし》の掌《てのひら》を開《あ》けさせて、ころりと振《ふ》つて乗《の》せたのは、忘《わす》れもしない、双六谷《すごろくだに》で、夫婦《ふうふ》が未来《みらい》の有無《ありなし》を賭《か
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