は出来るだけ開放して公衆の縦覧を許すやうにして欲しいものである。巴里の大美術商ジユラン・リユイル氏が毎週に一度その寝室までを公開して所蔵の印象派以後の諸大家の絵を縦覧させて居るやうなことは、完全な公設美術館の無い我国では殊に必要であり、有益であると思ふ。例へば私達は日本式の庭園術が特色を持つて居ることを書物の上で知つて居ても、京都の桂の離宮や二条離宮を拝観しない以上、有名な小堀遠州の庭園術を実際に鑑賞することは出来ない。かう云ふ遺憾は日本の各時代と各流派とを代表する美術品に就いても常に感じることである。私は紀州の徳川侯が南葵文庫を公開されたり、尾張の徳川侯が有名な源氏物語絵巻其他の貴重な美術品を先頃一部の人達に一日の縦覧を許されたりしたやうなことが続々行れて欲しいと思つて居る。今の若い芸術家は自分の国の芸術を知らないと云はれるが、知らうにも知る機会が非常に乏しいのである。私の知つて居る若い文人で木下杢太郎さん程日本の芸術に該博な知識を持つて居る人は無いと思はれるが、木下さんが其れまでに蘊蓄されるには非常な注意と時間とを費されたことであらう。巴里のルウヴル宮やリユクサンブルの美術館のやう
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