居ると聞くだけで、勿論こちらからは見える筈が無い。隣の邸の建物はずつと遠くにあるのであらう、私達は此処へ移つて来てから塀の向ふでする人の笑ひ声一つ聞いたことも無い。いつも塀の向ふは静かである。唯だ夜になると大きな飼犬が邸の内へ放たれると見えて、それの吠える声が聞える。さうして、夜更けて私達が書斎の戸を締めたり、子供達が便所へ行つたり、末の子のために私が牛乳を温めに起きたりする物音の聞える度に、屹度其犬が塀の側へ駈け寄つて私達に吠える。私はその主人に忠実な犬だとぐらゐしか思つて居ないけれども、僻む人には毎晩隣の犬に怪まれねばならないと云ふことがいい感じを与へないであらう。
 富んだ私人の家や公共的の建築が高い、いかめしい、堅固な塀で取巻かれて居ることを私は好ましくないことだと思つて居る。それは他と親まずに秘密主義を守つて居た封建割拠時代の遺風である。館《やかた》や城に立て籠つて最後まで戦ふ準備を必要とした武士道時代の余習である。また武士と町民との区別がやかましくて、前者が後者に対し形式的に威張り散らした時代の模倣である。もう今の時代に監獄と火薬庫と要塞とを除いて、其様な恐しい塀の設備が必
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