るほどに柔順《すなお》でありませんから、学校でこそ教師の前で良妻賢母主義に甘んじたような顔附を致しておりますけれど、教師が学校内にばかり閉籠《とじこも》っているのと違《ちが》い、若い婦人は学校の門を一足出れば直ぐに「娘」としての自由な天地に遊んで、自身で新代の令嬢教育を不完全ながら試みております。学校では賢母良妻主義だけの教育を授かっているにかかわらず、今の家庭になお多数の娘らしい娘を見受けるのは、学校外の社交の経験や、教科書以外に古今の文学書などを読んで自ら教育した結果に相違ありません。教育家が学校にばかり閉籠って世の中を見ずにいると、その教育はかように空疎な物になってしまいます。
仮に夫唱婦和が昔の道徳の保存として好《よ》い事であるとしても、今の多数の男子は夫として妻に対し何を唱えるでしょう。学校時代の教師の教にさえ内心では十分に服せぬ娘が、妻となりましたからといって夫の言葉を一一《いちいち》御無理|御尤《ごもっとも》と和するほどに今の教育は女を愚に致してはないはずです。さすれば夫たる者の唱える所は妻を心服せしめるだけの準備が是非必要であると存じます。今の多数の男子は勿論婦人に
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