ものです。それが夫婦の場合ならば必ずその趣味に由《よっ》て相和して行かれるものだと、私は自分の経験から堅く信じております。もし世評のように環女史と藤井氏との離婚が趣味の相違に原因しておりますならば、両氏の趣味が其処まで高くなかったか、あるいは両氏のどちらかに趣味が欠けていたのであろうと想います。言換《いいかえ》れば両氏の人格の修養が不完全であったのでしょう。人格の相違は女を良人が屈従させ得た時代ならば知らぬ事、多少でも教育を受けた今日の男女間では離婚の結果に立ちいたるのが至当《あたりまえ》であろうと存じます。これはつまり結婚前の選択が粗漏であって双方の人格を尊重し合わなかったのが悪いので、それはまた今の教育が単に学校を卒業した男子と、時世遅れの良妻賢母主義に合う女子とを作る事にのみ急で、肝腎《かんじん》の「人格を完備した男女」を作る事を忘れ、人格を尊重し合うべき事を息子《むすこ》のため娘のために教えて置かぬ罪に帰せねばなりません。
この問題について男の教育家は揃《そろ》いも揃って「夫唱婦和」主義で環女史を批難していられるのに、東洋婦人会長の清藤秋子《きよふじあきこ》女史はなかなか面
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