の教育を一足飛《いっそくとび》に授けて置いて、女学生の不品行問題などが起ると責任を女学生に帰せられるのは甚しい不道理です。近頃の問題に上《のぼ》った小林氏の令嬢などは私から見れば娘としての教育が不完全であったためだと存じます。もし今の教育家の立場から見れば、祖父の如き田中伯爵に嫁して進んで老伯爵のために良妻賢母となろうとするのはむしろこれを褒《ほ》めるのが当然でしょう。

 家庭において、社交において、男女交際において、一人前の娘として恥しからぬ娘を仕立てる事は良妻賢母主義の教育に比べて遙《はるか》に優っており、かつまた急務だと存じます。一人の夫や両人の舅《しゅうと》姑《しゅうとめ》や自分の生んだ子供に対する心掛などは、その場に臨めば大抵の女に自然会得が出来るものです。また割烹《にたき》の法とか育児法とか申す事位は、台所で母や下女《げじょ》と相談したり、出入の医者に聞いたり、一、二冊の簡便な書物を読んだりしても解る事です。かような事を倫理だとか学問だとか申して高等な学校で教えるのは馬鹿げていると私は常に考えております。

 目が開《あ》きかけた今の若い婦人は、今の教育家の教などに屈従するほどに柔順《すなお》でありませんから、学校でこそ教師の前で良妻賢母主義に甘んじたような顔附を致しておりますけれど、教師が学校内にばかり閉籠《とじこも》っているのと違《ちが》い、若い婦人は学校の門を一足出れば直ぐに「娘」としての自由な天地に遊んで、自身で新代の令嬢教育を不完全ながら試みております。学校では賢母良妻主義だけの教育を授かっているにかかわらず、今の家庭になお多数の娘らしい娘を見受けるのは、学校外の社交の経験や、教科書以外に古今の文学書などを読んで自ら教育した結果に相違ありません。教育家が学校にばかり閉籠って世の中を見ずにいると、その教育はかように空疎な物になってしまいます。

 仮に夫唱婦和が昔の道徳の保存として好《よ》い事であるとしても、今の多数の男子は夫として妻に対し何を唱えるでしょう。学校時代の教師の教にさえ内心では十分に服せぬ娘が、妻となりましたからといって夫の言葉を一一《いちいち》御無理|御尤《ごもっとも》と和するほどに今の教育は女を愚に致してはないはずです。さすれば夫たる者の唱える所は妻を心服せしめるだけの準備が是非必要であると存じます。今の多数の男子は勿論婦人に
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