比べて数倍の学問も智慧《ちえ》もありましょう。けれども完全なる「人」としての教養はどうでしょうか。私は良妻賢母主義に対して男子にも良夫賢父主義とでもいう教育を授けてはどうかと揶揄《やゆ》せられた或人の議論を一理あると考えます位に、多数の男子は今|以《もっ》て妻に対する心掛が野蛮であると存じます。
それならば少数の男子――社会において人としての教養を最《もっとも》多く積んでいられるらしい男子の方はどうかと申すと、その例には女子教育家であって度度《たびたび》女子問題に御説を出《いだ》される三輪田元道《みわたもとみち》先生などを引くのが都合が宜しいと存じます。先生は今の教育家として御立派な方《かた》でしょうが、近年夫人が御亡《おなく》なりになって間もなく再婚を致された際の先生の御話を雑誌で拝見した時に私は厭《いや》な気持が致しました。先生の再婚の理由として「小供らの教育を托《たく》する人を得て冥途《めいど》の妻の心を喜ばすために後の妻を貰《もら》ったのである」という意味の事を述べられていましたが、教育家という諸先生はこうまで自分の心をも社会をも欺いて嘘を吐《つ》かれる者か。もしまたこれが嘘でなければ教育家ほど物の分別の附かれぬ者はないと私は少からず驚きました。こういう男子の相手としては如何にも益々《ますます》柔順なる良妻が必要かも知れませんが、その偽善や不道理を一一御尤と和している婦人は今後|益《ますま》すなくなる事でしょう。
この三輪田先生が環《たまき》女史の離婚を評して「二人の職業から来る趣味の差別などは夫婦としての情愛に一毫《いちごう》も加うる所がないはずでなければならぬ」と申されましたが、夫婦の情愛というものが水の上の油のように別になって「人」のする百般の事柄と何の関係《かかわり》もないと考えていられるのは余《あまり》に浅浅《あさあさ》しくはありますまいか。男女の愛情がそう単純なものならば古来恋愛から起った悲劇があれほど沢山にないはずです。先生はまた女は或程度まで自己の職業より来る趣味は捨てても良人《おっと》のそれと迎合し同化するというようにせねば到底円滑には立行かぬといわれましたが、これはやはり「夫唱婦和」の間違った御考であって、良人の説に迎合せよなどと強《し》いるのは教育勅語の「夫婦相和し」の御趣旨が徹底しておらぬ証拠で御座います。こういう態度で男子が
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