仰せらるべきはずです。

 昔には夫唱婦和で表面《うわべ》だけにせよ家庭が治《おさま》った御治世もありましたから当時の道徳としてはそれで好《よ》かったかも知れませんが、婦人の目が開《あ》き掛けて男と対等の地位を自覚しようとする今日に、まだそのような未開野蛮時代の道徳で婦人を圧《おさ》え附けようとする教育家諸先生の頭脳《あたま》の古風なのに驚かねばなりません。道徳は教育家ばかりの私するものでないのですから、その古風な頭脳のみで御判断なされずに、今の世の識者の意見を遍《あまね》く参照して、文明人が安心して実行する事の出来るもっと堅固な、もっと立派な道徳を教育家自身が先ず体得して、それを以って水が低きにつく如く無理のない自然な教育をなされてはどうでしょうか。私どもからかような事を申上げるのは教育家の頭脳がまだ十八世紀以前に固定しているからであって、諸先生のために甚だ惜まねばなりません。

 婦人がかような正しい道理を教育家に対して申上るようになったのは、今の婦人が生意気なからでもなく、澆季《ぎょうき》の世になったのだといって御歎息なされる訳もありません。文明の結果教育の結果は必ず婦人の目が開《あ》いて此処《ここ》に到るべきものなのです。もしこれが悪いと致せば教育を普及せられた諸先生の方が悪いという事になりましょう。

 常日頃《つねひごろ》私は今の女子教育がまだまだ真の文明教育の趣意に遠《とおざ》かっていると思っております。女子大学などと申す立派な名義の学校まで出来ながら、多数の生徒は何を習っているかといえば、良妻賢母主義の倫理と家政科と言う割烹《にたき》の御稽古《おけいこ》とが主になっております。教育家の考では自分が教育家となるために学問をして教育界の事の外には何も他の社会が解らず、使途《つかいみち》のない人間になって一生を送られる如くに、一切の女を良妻賢母ばかりに仕立|上《あげ》る御積《おつもり》でしょうが、生憎《あいにく》な事には、女は妻となり母となる前に娘という華やかな若い時代があります。良妻賢母教育の前に先ず「令嬢教育」というものを何故《なぜ》施されないのか。女に早く年を寄らせようという主義の教育は無粋《ぶすい》というよりむしろ惨酷でしょう。令嬢教育|即《すなわ》ち娘として世に立つ大切な年頃の教育を主として授けず、御門違《おかどちがい》な人の妻となり母となった後
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