られる事柄であって、むしろ日本の家庭の進歩したために生ずる行き違いであると考えたいので御座います。しかし我国の今日の有様ではまだ容易に陸軍軍医正たる藤井氏の趣味が其処《そこ》まで進んでいるとは想像致しかねます。これは新聞記者たる方方のもっと深い観察を煩さねばなりません。

 離婚という事を一概に罪悪のように考える人のあるのはどうでしょうか。離婚をして双方幸福の生涯に入った人も少《すくな》くないと存じます。そういう場合には社会はその人たちの離婚を賀しても宜《よろ》しいでしょう。また夫婦という者はあながち幸福ばかりを打算して一緒になっておられるものでなく、そういう打算や道徳や義理や、聖人の教や、乃至《ないし》神様の語《ことば》などを十分知り抜いてしかもそれを超越した処に、どうしても双方の気分が喰違《くいちが》って面白くないという場合もあるのですから、其処に至っては合議の上で離婚するのが正当の処置であろうと存じます。

 私は気の毒に感じます事は、教育界の諸先生がこういう事件に出会《であわ》れる度《たび》に、心にもない世間|受《うけ》の好《い》い事をいわれたり、また正直に自分の不明を告白せられたり致す事です。『朝日新聞』に出た諸先生の御説を拝見しますと、女子音楽学校長の山田源一郎《やまだげんいちろう》先生は「既に一個の家庭を持った以上はやはり夫唱婦和でなければ成立って行かぬであろう」と申されましたが、今の世の中に男も女も人形のような者でない以上、この夫唱婦和という子供の飯事《ままごと》みたいな手緩《てぬる》い生気のない家庭は作れまいかと存じます。
 夫唱婦和などと申す事は男の方が自分の都合のいいように設けられた教で、根が女を対等に見ぬ未開野蛮のあさましい思想から出ております。片方《かたっぽう》の都合のいいように途中で設けられた道徳以上に、私どもは人の心が完全に発展して行けば必ず其処に達せねばならぬというものを土台にした道徳に由《よ》って安住致したい。もし夫唱婦和が人の本性《ほんしょう》に基いたものであるなら、諾冊二尊《だくさつにそん》が天《あめ》の御柱《みはしら》の廻り直しもなさらないでしょうし、また畏多《おそれおお》い事ながら教育勅語の中に「夫婦相和し」と夫婦の対等を御認めにもならなかったでしょう。山田氏などの教育家の御説が正しいものならば、教育勅語にも「夫唱婦和し」と
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