に物質的成功を以て文化に対する貢献なりと誤解し、煩瑣《はんさ》なる形式生活に追随するのみを知って人生の意義を解するを忘れたる物質主義素町人主義は皆排せざるべからず」といい、また「われらは道義のためにのみ生くるのではない。われらは常識の民としてのみ生くるのではない。いわんやわれらはいわゆる成功せんがためにのみ生くるのではない。われらは文化の帰趨《きすう》に朝《ちょう》せんとして文化価値の実現を努むる人格として生きんとするのである」といって、文化生活の水準に登らない孤立無理想の生活を批難されましたが、最近の婦人運動には、この厳粛なる批難の前に撤廃するか、もしくは開眼を施すか、いずれかの勇断を要するものが多いように思います。
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もしそれらの先輩婦人たちが早く文化生活の意義に通じておられたならば、その一々の社会的行動は、文化価値実現の理想を標準として批判され取捨されて、残るものはすべて文化運動の体系に繋《つな》がることが出来たでしょう。のみならず、現在の日本において、同じ文化運動でも、その本末と、軽重と急不急との序次を考察して、大局に関係するものを先とし、局部的なものを後廻しにするだけの用意があったでしょう。
しかるに、未来の生活理想に自覚を欠いた先輩婦人たちは、すべて因習に妥協し現状を維持する気分の中に、大した煩悶《はんもん》もなく住んで、名は改造といっても、その実際は何物も破壊せず、何物も創造せず、在来の範囲で単に無用の「置き換え」を試みて、それを婦人の活動と曲解されているに過ぎないのです。従って、その運動は前に挙げたような物質主義、功利主義、非人格主義の軽躁膚浅な行動に停滞しています。それらの婦人たちは、工場婦人の倫理問題、衛生問題、労働時間制限問題、賃銀値上げ問題、夜業禁止問題等についても、また国際労働会議における日本の婦人労働顧問の人選などについても、何らの動く所がありません。労働者の同盟罷工や怠業が如何に起ろうとも、信友会の印刷女工たちが如何に炊き出しをして組合の同盟罷工に活動していようとも、それらの事件に対して全く同情も声援を与えられません。有産と無産の階級闘争は既に我国にも爆発の端を示していますのに、それに対して何らの調節運動も促進運動も試みられません。それについて意見の発表さえもないのです。また町村会初め帝国議会に到るまでの政治機関
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