ことを怖れます。
世の中には、功利主義的の打算ばかりで生きて行かれない事もありませんから、買物帳をきちょうめんに附けたり、食べる物も食べず、自分と良人と子供との営養を削り取ってまで貯金の殖えることを楽みにして、唯だ口先ばかりで愛とか趣味とかを説き、他人の吉事に祝の品も贈らず、時々の音信に添えて珍しい物の贈答もせねば、他人の旅行に送迎を廃するというような日送りも、それでその人たちの感情が満足される限り、その人たち自身の処世法としては自由であると思いますが、それを印刷物や手紙やで私たちにまで勧告されるに到っては迷惑千万だといわねばなりません。そのような非人情的な運動に、他人の感触を害してまで力瘤《ちからこぶ》を入れられる必要が何処にあるでしょうか。私は敢てそれを無駄なことだと断言します、私たちは経済的の打算ばかりで生きるには余りに自己の尊貴を知り過ぎました。
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私は、指導者側の婦人たちが自身を先ず一切の因習から解放することの運動――自己改造の運動――を経ないで置いて、言い換れば、自分自身は旧世界の遺物である物質主義、功利主義、常識主義の汚染を洗い落さずに置いて、この破天荒な世界改造の新時代、あらゆる価値の顛倒《てんとう》しつつある今日に、未来の生活方向の指導者として、私たち一般の婦人に、その時代錯誤の各種の運動を試みられることの矛盾を反省して頂きたいために、以上の直言を敢てしました。
それらの各種の運動が一時のお祭騒ぎでなく、如何に真面目《まじめ》に熱心に起されても、文化主義の理想と一致する所がなければ、文化主義から絶縁し孤立した一種の遊戯行動であって、いずれも文化運動の体系には属さないものになってしまいます。私たちにはそれがあらずもがなの行為に見えます。そうしてそれらの無用|乃至《ないし》有害な運動に、あたら精力を消耗される先輩婦人たちの徒労を惜みます。露骨にいえば、それらの低級な常識的、物質的、功利的の運動のみに忙しく暮される婦人たちは、どうしてそんな非文化的行動の中に生き甲斐を求められるのであろうかと不思議に思います。
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左右田博士は「文化主義の論理」という論文の中で「あるいはあるがままの状態に妥協をなして惰眠を貪《むさぼ》らんとする保守主義、退嬰《たいえい》主義、凡俗主義、常識主義、乃至《ないし》好都合主義や……単
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