同時に為し得るものと、為し得ないものと、志が余っていながら境遇その他の事情の許さないものとありますから、おのずから本末前後の関係は生じるのですが、しかしその関係は流動的のものであって、私には固定的に見ることが出来ません。例えば、私自身が大病を煩《わずら》っている場合に、私は先ずその病気を治療することに私の生活の重点を置いて、その他の事はその重点を繞《めぐ》って遠景的に暈影《うんえい》を作るでしょう。数年前に亡くなった友人のH氏は、粟粒《ぞくりゅう》結核菌が大脳を冒して残酷な疼痛《とうつう》を起した時、看護していた奥さんがお子さんの事について何か相談されると、氏は悲痛な声を出して「今は子供のことなんか考えていられない。そんな場合でない。自分の苦痛で俺《おれ》は一ぱいだ。子供には健康がある」といわれました。そうしてH氏は二週間もその苦痛を続けた後に歿《ぼっ》せられたのですが、病院へ見舞に行き合せて氏のその悲痛な言葉を聞いた良人と私とは、一つの厳粛な人間的教訓をH氏から受けたということを感じました。人生はこういう突き詰めた所まで考えねば真剣であるとはいわれないかと思います。親として最愛の子供
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