教育を受けつつあった年頃から、家業を助けてあらゆる労働に服したために「人間は働くべきものだ」ということが、私においては早くから確定の真理になっていました。私は自分の家の雇人の中に多くの勤勉な人間を見ました。また私の生れた市街の場末には農人の町があって、私は幼年の時から其処に耕作と紡織とに勤勉な沢山の男女を見ました。私はそういう人たちの労働的精神を尊敬する余りに、人間の中にその精神から遠ざかっている人たちのあるのを見て、その怠惰を憎悪せずにいられませんでした。私はすべての人間が一様に働く日が来なければならない。働かない人たちがあるために他の人たちが余計に働き過ぎている。その働かない人たちの分までをその働き過ぎる人たちが負担させられていると思うのでした。これは私の家庭で、私と或一、二の忠実な雇人とが余りに多く働きつつあった実感から推して直観したのでした。
以前から私の主張している汎労働主義は、実にこの直観から出発して、私の半生の生活が断えず労働の過程であるために、これが益々私の内部的要求となったのですが、私のこの要求に対して学問的基礎を与えてくれた第一の恩人はトルストイです。
私は文化価値を創造する文化生活の過程は全く労働の過程であると考え、人は心的または体的に労働することに由って初めて自我の発展が出来るのですから、文化生活は労働の所産であり、人間が一様に労働するということを外にして、決して文化主義の生活は成立たないと思うのです。それで私は、すべての人間が労働道徳の実行者となることを望み、現在のように不労所得に由って衣食する階級と、労働の報酬に由って衣食する階級との対抗をなくして、労働者ばかりの社会となることを要求しているのです。(私の近著『心頭雑草』と昨冬の『中外新論』に掲載した私の「資本と労働」の一文とを参照して下さい。)
最近に出た米田庄太郎《よねだしょうたろう》先生のいくつかの論文を読むと、今日は「労働」と「労働者」との概念が大に拡張されて「手に由りて働く生産者」の外に「脳髄に由って働く生産者」をも労働者と呼ぶ時代となりつつあるという事を教えられます。その上また三月号の『中外』に出た米田先生の論文に由れば、現に露西亜《ロシヤ》の学者ミハイロヴスキイは「人格とは労働の発現である」といい、労働する者のみが人格者と呼び得る者であるという風にいって、労働人格説を唱
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