ありませんから、日本人はこの意味をよく領解して大学過重の弊に陥らないようにし、父兄と女子自身との心掛次第で如何なる高度の智力でも修養し得るものであることを知って、女学生は勿論、既に人の妻たり母たる生活に入った若い婦人までが、読書と社会的接触とに由って出来るだけ各自の智力を高くかつ博《ひろ》くするように努力して欲しいと思います。
私の言う智力とは学識の量をいうので無く、物事に対する理解力を意味するのです。学識の量をいうのなら到底専門学者に及ばない訳ですが、理解力は学者的態度を取るに及ばず、実際生活の直接経験と書物に現れた学者先覚者の議論の過程及び結論とを以て常に自分の常識を新しく補充しながら、何事に対しても部分に偏せず、表面に停滞せず、全体と核心とに正しく透徹した理解味到を持とうと注意さえすれば自然に花の綻《ほころ》ぶように内から開けて来る直覚作用です。
婦人と読物
私の度度《たびたび》述べることですが、特に「女の読物」として書かれた低級な物ばかりを読むのは、大人が子供のお伽話《とぎばなし》を読み耽《ふけ》るのと同じく、自分をわざわざ低能化しつつあるのだと思います。私どもは婦人に関する或特殊の必要な書物の外はなるたけ男の読物を読む習慣を附けて、現代人として知るべきことを男と対等に知識しようと努力せねばなりません。女の間に歓迎される種種の婦人雑誌などはいずれも女の感情に媚《こ》びて編輯された甘たるい分子が多く、男の世界では既に常識になっているほどの科学的及び社会的知識すら供給しない物です。私どもは最早娯楽のために物を読むような呑気《のんき》な生活をしていられないのですから、出来るだけ自分の力以上の読物を研究的に読もうと心掛けねばなりません。
今日では教育があるといわれる若い婦人さえ若い男子の読む十分の一の読書をもしない有様です。近頃の新聞や男子の読む雑誌にはかなり有益な学説が掲載され、また現代人として真面目《まじめ》に考えて見ねばならぬ個人及び社会の問題がいくつも記載されているのですけれど、婦人はそういう太切な点に目を着けず、唯《た》だ自分に解りやすい感情的凡俗的の記事ばかりを愛読しております。それですから男子の前で話が少しでも智力を要する問題に及ぶと厚顔《あつか》ましく支離滅裂な冗弁を並べるか、謙遜して口を噤《つぐ》んでしまうかの外ありません。偶《たま
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