少しは人並の量見を持たせてやってもよいという、特に男子側から御慈悲を掛けて御世辞半分に言い出された問題である。そうしてこの問題は格別婦人側の注意を惹《ひ》かなかった。近頃はまたこの問題の反動として、多数の男子側から女子実用問題が唱えられて来た。即ち女子に高等教育は不必要だ、手芸教育が必要だ、女子は柔順に教育しなければならぬというのである。女子に高等教育を授ける弊害としては、折から英国に勢力を得て来た女子参政権運動を例に引いている。女子は永久に男子に隷属すべきものだ、解放などは以《もっ》ての外《ほか》だという権幕である。例の保守的思想が時を得顔《えがお》に跋扈《ばっこ》するのであるからかような議論は毫《ごう》も驚くに足らないわけであるが、そういう男子が自分らだけは昔から自由を享得していたような態度であるから滑稽《こっけい》である。日本の男子は維新の御誓文と憲法発布とに由って初めて人並に解放せられたのではないか。自分らの解放せられた喜びを忘れて婦人の解放を押え、剰《あまつさ》え昔の五障三従《ごしょうさんしょう》や七去説《しちきょせつ》の縄目《なわめ》よりも更に苛酷《かこく》な百種の勿《なか》れ主義を以て取締ろうというのは笑うべき事である。しかしかような目前の問題に対しても我国の中流婦人は何事をも知らないのである。

 男子側から如何に多くの婦人問題を出されても、婦人自身に目を覚《さま》さねばこの問題の正しい解決は著《つ》かないであろう。いやしくも在来の如き高等下女の位地に甘んぜざる限り、中流婦人が率先して自己の目を覚し、自己を改造して婦人問題の解決者たる新資格を作らねばならぬ。それには何よりも先ず想う婦人、考える婦人、頭脳の婦人となり、兼ねて働く婦人、行う婦人、手の婦人となることが急務である。「我は何者であるか。」「我は人である。男女の性の区別はあっても、人としての価値は対等である。」「我は人間を本位として万物を見ると共に、また万物|乃至《ないし》生物の一として我を見ることが出来る。」「我は世界人の一人であると共に、日本人の一人である。」「我は何の目的にて生れたるかを知らず。宇宙の目的の不可知なる如くに。」「我には生きたいという欲がある。」「なるべく完全に豊富に生きたいという欲がある。」「人は孤独にて生きることは出来ない。協同生活が必要である。」「男女は協同生活の基点で
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