に発表せずとも十分に目的を果し得るものである。冥想とか静思とかの楽みを知っている人の一生は非常に幸福だと思う。またちょっとした事でも真面目《まじめ》に考える習慣を作ると感情的にのみ行動する事がなくなり、理智の眼が開いて、反省し、批判し、理解する力が鋭敏になり、それを拡充すれば自己の思想、感情、行為に統一が出来て、破綻《はたん》が減って行く。自己を理解すれば他人の思想をも理解が出来て、其処に正しい譲歩が双方の非を抛《なげう》つことに由って成り立つ。そうして自己を提《ひっさ》げて社会に順応し活動するに必要な自然の規律が完成されて行く。即ち考えるという事は保守主義者の憂惧《ゆうぐ》する所と反対の結果を来《きた》して甚しく倫理的な人格が出来上るのである。
わたしはこういう自信の上から一般の婦人に思想という事を奨《すす》めたい。我ら婦人は久しく考えるという能力を抛棄《ほうき》していた。頭脳のない手足ばかり口ばかりの女であった。手足の労働においては都会の婦人の一部を除く外、今日もなお男子を凌《しの》いで重い苦しい負担を果している。山へ行っても、海岸へ行っても、市街の各工場を覗《のぞ》いても、最も低額な報酬を受けつつ最も苦痛の多い労役に服しているのは婦人である。それにかかわらず男子より軽侮せられ従属者を以《もっ》て冷遇されているのは、唯手足のみを器械的に働かして頭脳を働かさないからである。そういう下層の労役に服している婦人は姑《しばら》く措《お》くとするも、明治の教育を受けたという中流婦人の多数がやはり首なし女である。何らの思想をも持たないのである。
身体の装飾、煮物の加減、裁縫手芸、良人《おっと》の選択、これらは山出しの女中もまた思う事であり、また能《よ》くする所である。良人の機嫌を取るという事も、現在の程度では狭斜《きょうしゃ》の女の嬌態《きょうたい》を学ぼうとして及ばざる位のものである。男子が教育ある婦人を目《もく》して心|私《ひそ》かに高等下女の観をなすのは甚しく不当の評価でない。一般男子の思想に比すれば婦人は何事をも考えていない、何らの立派な感想をも持っていないといってよいのである。
近年婦人解放という問題が出ている。しかしそれは婦人自身が言い出したのでなく、物好きな一部の男子側、議論ばかりで実際にその妻女を解放しそうにない男子側から出た問題である。婦人にも
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