母性偏重を排す
与謝野晶子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)哺育《ほいく》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)去年|独逸《ドイツ》軍のために
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「より」に傍点]
−−
トルストイ翁に従えば、女は自身の上に必然に置かれている使命、即ち労働に適した子供を出来るだけ沢山生んでこれを哺育《ほいく》しかつ教育することの天賦の使命に自己を捧《ささ》げねばならぬと教えられ、またエレン・ケイ女史に従っても女の生活の中心要素は母となることであると説かれる。そうしてトルストイ翁では男の労働に対してする余力ある女の助力が非常に貴いものであるとして許容せられるに反し、ケイ女史では女が男と共にする労働を女自身の天賦の制限を越えた権利の濫用だとして排斥せられる相異がある。またトルストイ翁では男女の生活の形式は異っていても一般の天賦においては全く平等であると見られるのに反し、ケイ女史では自然が不平等に作った男女の生活を人間が平等にしようとするのは放縦《ほうしょう》であると見られる相異がある。しかし体的労働と心的労働が男に属する天賦の使命であって、女にはそれが第二義の事件であるという思想は二家共に一致している。
こういう二家の主張と、これを継承し、または期せずしてこれと同調の思想を述べる主張が世にいう母性中心説である。私はこの説に対して疑惑がある。
誤解を惹《ひ》かないために予《あらかじ》め断って置く。私は母たることを拒みもしなければ悔いもしない、むしろ私が母としての私をも実現し得たことにそれ相応の満足を実感している。誇示していうのでなく、私の上に現存している真実をありのままに語る態度で私はこれを述べる。私は一人または二人の子供を生み、育て、かつ教えている婦人たちに比べてそれ以上の母たる労苦を経験している。この事実は、ここに書こうとする私の感想が母の権利を棄て、もしくは母の義務から逃れようとする手前勝手から出発していないことを証明するであろう。
女が世の中に生きて行くのに、なぜ母となることばかりを中心要素とせねばならないか、そういう決定的使命が何に由って決定されたか。私の意識にはこの疑問が先ず浮ぶ。そうしてトルストイ翁のこれに対する答えは「人類の本務は二つに分れる。即ち一は人類の幸福の増加、他は種族の存続。男は後者を履行することが出来ないようにされているので、主として前者にまで召命されている。女は彼らのみがそれに適しているので、全然その後者に召命される。……その本務は人間に由って発明されたものでなく、物事の本性の中にあるのである」(加藤一夫さんの新訳『我等何を為《な》すべきか』に拠る)と言われる。
この答を得てかえって私の疑惑は繁くなった。それは恐らく私の思慮の足りないせいであろうが、私にはトルストイ翁のこの答の中に重大な誤謬《ごびゅう》が含まれているように想われてならない。翁は男女の本務が物事の本性の中で予定されているといわれる。「物事の本性」とは男性は男性の本質、女性は女性の本質の意味であろう。私はそれを考察してみた。そうして私は「物事の本性」が男性女性という外面的差別の奥に「人間性」というもので全く内面的に平等であることを見た。そうして人類の本務はトルストイ翁の説かれるように二つを大別されていない。唯だ一つ「人類の幸福の増加」言い換ればより[#「より」に傍点]好《よ》く生きて行こうとする根本欲求の実現の外に何もないのを見た。これが人間性の全部である。
私の考察が間違っていないなら、この唯一の根本欲求には人間の万事が含まれている。トルストイ翁の言われた「種族の存続」もその万事の内の重要な一大事として私には見られる。そうして人類の本務――人類の幸福の増加――には総ての人間が平等に参加し、男女の性に由って外面の状態に差別はあっても、本質的には男も女も平等の人間として人間性の完成に力を協《あわ》せているように私には見られる。勿論世の中には男女の協力が不権衡になり、中には殆ど男女いずれかの力の加わらない事実さえ存在している。平等を欠いたそれらの事実は総て「人類の幸福の増加」のために無用または有害な事実ばかりであり、それに由って世界の調子を失い、進歩を遅滞し、悲惨を簇生《そうせい》している。例えば男性ばかりで計画された戦争という殺人事業のようなものがそれである。
人間の万事は男も女も人間として平等に履行することが出来る。それを男性女性という形式の方面から見れば、その二つの異った形式に従っていろいろの異った状態が履行の上にあるいは生じたり生じなかったりするだけである。具体的に言えばトルストイ翁は男は種族の存続を履行することに与《
次へ
全5ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング