あずか》り得ないように言われたが、それは何人《なんぴと》にも明白な誤謬である。人間は単性生殖を為《な》し得ない。男は常に種族の存続に女と協力している。この場合に唯だ男と女とは状態が異るだけである。男は産をしない、飲ますべき乳を持たないと言う形式の方面ばかりを見て、男は種族の存続を履行し得ず、女のみがそれに特命されていると断ずるのは浅い。性情の円満な発達を遂げた父母の間に子に対する愛が差別のないのを考えても内面的には男女の協力が平等であることが想われる。
 私はこうしてトルストイ翁のいわゆる「物事の本性」を私の力の及ぶ限り透察した。そうして私は人間がその生きて行く状態を一人一人に異にしているのを知った。その差別は男性女性という風な大掴《おおづか》みな分け方を以て表示され得るものでなくて、正確を期するなら一一の状態に一一の名を附けて行かねばならず、そうして幾千万の名を附けて行っても、差別は更に新しい差別を生んで表示し尽すことの出来ないものである。なぜなら人間性の実現せられる状態は個個の人に由って異っている。それが個性といわれるものである。健《すこや》かな個性は静かに停まっていない、断えず流転し、進化し、成長する。私は其処に何が男性の生活の中心要素であり、女性の生活の中心要素であると決定せられているのを見ない。同じ人でも賦性と、年齢と、境遇と、教育とに由って刻刻に生活の状態が変化する。もっと厳正に言えば同じ人でも一日の中にさえ幾度となく生活状態が変化してその中心が移動する。これは実証に困難な問題でなくて、各自にちょっと自己と周囲の人人とを省みれば解ることである。周囲の人人を見ただけでも性格を同じくした人間は一人も見当らない。まして無数の人類が個個にその性格を異にしているのは言うまでもない。
 一日の中の自己についてもそうである。食膳に向った時は食べることを自分の生活の中心としている。或小説を読む時は芸術を自分の生活の中心としている。一事を行う度に自分の全人格はその現前の一時に焦点を集めている。この事は誰も自身の上に実験する心理的事実である。
 このように、絶対の中心要素というものが固定していないのが人間生活の真相である。それでは人間生活に統一がないように思われるけれども、それは外面の差別であって、内面には人間の根本欲求である「人類の幸福の増加」に由って意識的または無意識的に統一されている。食べることも、読むことも、働くことも、子を産むことも、すべてより好く生きようとする人間性の実現に外ならない。
 或一事を行う度に生活の中心がその一事に移動して焦点を作り、他の万事は縁暈《えんうん》としてそれを囲繞《いじょう》している。こうして人間性が無限無数にその中心を新しく変えて行けばこそ人間の生活が活気を帯び、機勢《はずみ》を生じ、昨日に異った意義と価値を創造して進むことが出来る。これが人間生活の堅実な状態である。そうして人間にはこれと齟齬《そご》する病的な状態がある。即ち物を食べていながらこの事に熱中しがたくて食べている物の味を享楽することが出来ないような状態である。何事も沈滞していて中心となるまでに焦点を作らない状態である。それが人間の根本欲求と分裂している病的な状態であることは人間がその状態に満足しないのみか、それを不純、怠惰、卑怯、姑息、頽廃、堕落というような自覚を以て自ら憎悪し、自ら愧《は》じ、自ら苦《くるし》み、自ら出来るだけそれを脱しようとして焦燥《あせ》るので明かである。
 今一つの病的な状態がある。しばしば無用または有害な或一事に生活の中心が集まりやすいことである。例えば女が低級な名誉心――栄誉心――を中心として常に行動するような場合は決してそれが女自身の上に真実の幸福を持ち来《きた》さない。かえって女自身の生活を人間の根本欲求に反して不幸に導くものである。こういう場合には人間の本務を標準としてその悪性な中心要素を批判し、それを一掃して、他の必要有益な中心要素の起伏する堅実な生活状態に就《つ》かねばならない。
 私は母となった時に初めて母としての実際生活が私の上に新しく創造されて来たのを経験した。そうして自分の子供を育てることに私の注意が集る度ごとに其処に母性が私の生活の中心要素となり、私の自我の全部を統率しているのを経験した。私の子供が私の外になくて私の自我の中に愛を以て抱かれているのを明かに見た。全く私の子供は私の内に浸透して不可分の関係になっている。私は私のように子供のある女に取って母性が重要なものであることを、子供を持つ他の婦人たちと共に実感することが出来た。
 しかし私が母となったことは決して絶対的ではなかった。子供の母となった後にも、私は或一人の男の妻であり、或人人の友であり、世界人類の一人であり、日本臣民の一人で
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