ある。また思索し、歌い、原稿を書き、衣と食とを工夫し、その他あらゆる心的労働と体的労働とに服する一人の人間である。私はそれらの一事一事を交代に私の生活の中心として必要である限りそれにじっと面して専心することを私の生活の自然な状態としている。
私は母性ばかりで生きていない。母性を中心として生きているように見える時にも私の自我には前に挙げたような私の他の諸性が、丁度人が現に見守っている一つの星を繞《めぐ》って無数の星が群を成しているように廻転している。そうしてそれらの諸性の一つが次の時には現在の中心である母性に代って私の生活の中心となり、更にまた他のものが次ぎ次ぎに代って行く。それらの無数に起伏して異った中心を作る諸性が互に輔《たす》け合い、埋め合せ、もしくは互に撥《は》ね返し、闘争して、不断の流転を続けることに由って私の自我は成長し、私の生活は開展する。
もし私が自分の生活状態に一一名を附けるなら無数の名が要《い》るであろう。母性中心、友性中心、妻性中心、労働性中心、芸術性中心、国民性中心、世界性中心……それは煩雑に堪えない上に殆ど無用の命名であるほどに私の生活の中心は相対的無限なものであって常に起伏し変転している。私は仮に一日二十四時間といえども一つの生活状態に専らであり得ない、まして絶対に母性中心を以て生涯を終始することは私が絶対に芸術性中心を以て生涯を終始するのと同じように不可能である。そうしてこの不可能は私ばかりでなく一切の女の上に言い得ることである。例えば私が自分の子供に乳を呑ませようと注意した時に私の現在は母性を中心として生きているが、次の刹那《せつな》にまだ自分の乳房を子供の口に含ませているにかかわらず、最早私の生活の中心は移動して、私は或一篇の詩の構想に熱中していることである。前の私が母性中心の状態にあることはその時私の子供の哺育のために必要である。その必要に用立った後に私の母性が中心の位地を次に登って来た芸術性に譲り、その芸術性の無数な背景の一つとなって私の意識の奥に遠《とおざ》かってしまうのは当然である。二つの物は同時に同じ位地を占め得ない。子供を哺育する時に専ら母性中心であり、詩を作る時に専ら芸術性中心であるからこそ哺育と詩作の二つの事が私の生活に遂げられるのである。私はどうしても絶対的母性中心の生活を営み得る状態を想像することが出来ない。もし一刹那も子供から外に心を移さずにいて生涯をそれで貫徹することの出来る女があるなら知らぬこと、人間性は無限の欲求を生み、その欲求の一つ一つをそれが自分の成長に貢献するものである限り、尊重して忠実に履行するのが人間生活の自然であるとするなら、誰も一つの欲求に偏してはいられないはずである。
世間には自分の生活に公と私、主と客、真実と方便、本務と余技、第一義と第二義という風な差等を設けている人たちが少くない。私も近頃までは漫然とそういう二元的な物の見方を模倣していた。けれども真に現在に生きようとする自覚が明確の度を増して行くに従い、「人類の幸福の増加」という人間の本務――私の本務――に役立つ限り、万事が一様に自分の真実の生活であり、第一義の生活であるように感ぜられて来た。以前は恋愛や、芸術や、学問や、宗教や、社会改良事業などというものばかりを人間の第一必要品のように思い、みずから衣食住の実際問題に困っていながら、かえって逃避的な支那賢人の虚偽な告白などに欺《だま》されて、その衣食住などを第二義の問題のように誤解していたのであったが、近頃はどれも私に取って同じく第一義の価値を持つようになって来た。エレン・ケイ女史などが生活の表面に起伏して中心要素となる無量の欲求が永遠に対立しているこの見やすい事実を知っていながら、その欲求の中の母性ばかりを特に擁立して絶対の支配権を与え、いわゆる絶対的母性中心説を以て我々婦人に教えられるのは、対等であるべき無数の欲求に第一義第二義の褒貶《ほうへん》を加える非現実的な旧い概念から脱しきらない議論のように私には見える。
人が親となることは、親となる資格を備えている人という制限を越えない範囲で望ましいことである。未成年の男女、不健康な男女、無智な男女、全く経済的自活力のない男女、それらは結婚するのさえ不幸の本である。ましてそれらが親となることは一層の不幸が予知せられる。その場合男には父性の生活を、女には母性の生活を経験せしめない方がかえってよい人たちである。また結婚して親となる資格を備えていても、失恋とか孤独を好む性質とかに由って結婚を好まず、職業の関係から学者、宗教家、探検家、教育家、飛行機家、看護婦などのように結婚を避ける人たちがある。その人たちは結婚して親となることにみずから一種の不幸が予知せられ、それを予防する摯実《しじつ》な必要から
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